みっつ通信

みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

被害妄想をやめて、恐怖に立ち向かおう。

3/7~3/11までの5日間の移動する生活を終えて、家に帰ってきてからというもの未だに心の傷が癒えていないと感じる。
 
 
家にいる間はまるで鬱病の時のように無気力になり、20時間でも眠れ、弟に八つ当たりしては弱音を吐く始末。
 
得体の知れない負の感情が波のように押し寄せては返す。周りを見渡してみても立ち直りが人よりも遅い気がする。
 
きっと、過去に他人の目に触れるということが著しく欠如していたせいで、人の視線や相手が何を思っているのかに意識を置きすぎているんだと思う。
 
今こうして記事を書きながらもあの人はこれを読んだら何を思うだろうと考えてしまって、本当は表現してみたいことも中断を余儀なくされてしまう。
 
被害妄想が酷く、誰かが全く悪意なくポロッと言ったであろう程度の言葉が頭から離れない。
 
自分は無理をしていたんだということに今更気付く。
 
テーブルの上を見れば、無造作に置かれた札束。微々たるお金が慰めになるようでは一体自分は何のために生きているのかわからなくなる。
 
他人のことばかりに気を取られ、自分自身の心をどこかに置き忘れてきてしまったようだ。 
 
孤独や絶望の切れ端を経験し、そこから這い上がった人間は強いと思う。人一倍幸福を感じることが上手だろうとも思う。
 
けれど、普通に育っていたら、これほど傷つきやすい自分ではなかったのではないだろうかと思ってしまう自分もいる。
 
でも、そこからまた一つ気付いたことがある。それは、この世に「普通」に育った人間などいないということだ。
 
普通に育ち、普通のレールに乗り、普通の人生を歩むことに憧れを抱いていた時期もあった。
 
しかし、普通の人生や普通の幸せなど存在しないのだ。誰もが自分流の幸せの形を持っている。
 
だから、今は普通に生きたいという願望は消えた。自分からは一生逃れられないのだということも知っている。
 
だから、変わらないからこそ、命を開かせていくことを諦めたくないのだ。今まで文化や芸術から生き血をすすって生き延びてきたように、これからはそれらを無駄にしないためにも思う存分に自分をさらけ出して生きていきたいのだ。
 
自分のことを希望だと言ってくれたり、心を洗ってくれる、あなたの命はあなただけのものじゃない、生きていてくれてありがとう、と数々の優しい言葉を受けた。
 
とてもありがたいけれど、何も感じない自分もいた。震度1の口元のほころび。
 
その中でも印象に残り、救いとなった言葉が「みっつはもっともっと気持ち良くなっていいと思います」というメッセージだった。
 
どんな言葉でもブログに書いてみようと思えた。自分の心に響く言葉に出会えるということは、自分の可能性を広げてくれるということだ。自分や他人を責めることに時間を使うよりも、自分自身がもっと広がっていくような行動に時間を使っていきたいとそう思わせてくれた。
 
自分がしていることが果たして自分の役に立つのか、引いては社会の役に立つのかとかいろいろと考えすぎてしまうこともあるけれど、自分にとって未知なることをやろうとしているからこそ、恐怖を覚えたりもするのだと思う。そんな恐怖に立ち向かっていくことが自分の中の「答え」を増やすことにもなっていくのだと思う。