みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

生きることに疲れた時は眠ろう。

生きていると何かしなければいけないという強迫観念に囚われがちになってしまう時がある。何かしなければいけないというのは、労働しなければいけないとかそういうことというより、何もしていないと生きている心地がしないから、何かしなければいけないと思ってしまうのではないかと思う。
 
今はスマホを通してネット世界にいくらでも浸っていられる社会だから、それほど暇つぶしには困らない。人生は暇つぶしだという言葉を自分は何度か使ったことがあるけれど、厳密には生きるということは、どこに生きる実感を見出すかという問題に近いのではないかと思う。
 
自分にとっての幸せの形は、自分の好きなことに熱中するとか、自分のやりたいことに夢中になるとか、そういう類のゾッコン系だ。しかし、何かにゾッコンするということは、何かにゾッコンしていない時があるということだ。
 
何かにゾッコンしている時が自分にとっての幸せならば、何かにゾッコンできていない時は幸せではないということになる。暇つぶしできていない時は幸せではなくて、暇つぶしできている時は幸せ。果たして、幸せとは本当にそういうものなのだろうかと自分に問う。
 
最近はなんだか生きるということは留めておくということだという認識が自分の中に生まれてきている。これは、今の現代社会では否応なしに「何かを留めておかなければ生きていくことは難しい」ということになってしまっているのではないかという話だ。
 
お金はわかりやすい例だ。常に手から離れていってしまうようなものをいかに自分の手の内に留めておくのかという話がこの社会にはごろごろ転がっているように思えてならなくて、自分は生きているだけで気が滅入りそうになる。
 
人付き合いもそうだ。特定の誰かと繋がっていることで得られる安心感みたいなものは、自分の生活の心配からくるものが多いと感じてしまう時がある。
 
売らなければ、有名にならなければ、お金をたくさん稼がなければ、みたいな結局左脳使うじゃん系は自分の生きる気力を削ぎ取る。たまには右脳を使って夢を見たい。
 
自分にとっては夢を見せてくれるものは全部右脳使わせてくれるじゃん系だ。アニメとか、映画とか、音楽とか、本当にありがとう。右脳使わせてくれてありがとう。意識にダイブさせてくれてマジで感謝。
 
自分の好きなことに夢中になっている時は満たされる感覚がある。生きるのしんどいなってなった時は、多分、左脳の使いすぎだ。ゆっくり脳を休める必要があるかもしれない。
 
前回の記事では、「生きる意味、それは、人を幸せにするということ」と書いた。きっと、人の幸せには、クリエイティブとかイマジネーションとかそっち寄りの右脳系が必要になるのだろう。
 
だから、突拍子もないけれど、何か嫌なことがあった時は、寝よう。寝れば、夢を見られる。もしかしたら、この世のものとは思えないほどきれいな星空と出会えるかもしれないし、気持ちよく海の中を泳いでいるような夢が見られるかもしれない。
 
意識の深層には、癒やしがあるような気がする。疲れた時は休もう。何かを留めておかなければ生きていけないのであれば、休んでいるときぐらいは全部手放そう。現実を生きて、何かに夢中になって、幸せを感じて、でも、心のどこかで幸せを感じられなくなった時は、自分の好きなものに囲まれて眠るのだ。
 
今日も一日よく生きた。夢を見に眠ろう。