みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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本当に大切なものはそう多くない。

らしくもなく定期的にブログを書くことに成功している。といっても、4記事目だけれど。最近の私はというと、彼女と家で10日間近く一緒に過ごしている。これは半ば彼女は家に住んでいる状況と言っても差し支えないぐらいだ。無論、弟も一緒にいるので、別にイチャイチャしまくっているかというと全くそんなことはない。
 
今はうちの近くにあるスターバックスでコーヒーを飲みながら、この記事を書いている。隣の席には作業に勤しんでいる彼女が座っている。コーヒー代は彼女が出してくれている。最近は昼頃まで寝て、日が出ているうちにスタバへ行き、彼女と二人でスタバが閉店する間際までノートパソコンでお互い別々に作業やネットサーフィンをするのが日課になっている。それから、夕飯の食材を買いにスーパーに寄り、家に帰った後、料理をして、ご飯を食べ、弟と彼女と自分でおやつを食べたりしながらまったりする。そして、日付が変わる頃には布団に入り、お喋りなどを楽しみながら、知らぬ間に寝ついて、気付けば昼頃に起きるというのが習慣になっている。
 
改めてこうして書いてみると充実しているように思う。ご飯の材料費も彼女が出してくれているので、自分の出費はほぼほぼ無いという。最近はSpotifyという邦楽から洋楽まで最新の曲が無料で聴けるアプリにはまっていて、今もSpotifyで昔から好きな米米CLUBの曲を聴いている。石井竜也が好きなんだよね。
 
ちなみに欲しいと思えるものが全くなかった自分が、唯一最近これは欲しいと思っていたゲーム機「PS4」がつい先日自宅に届き、狂喜してしまった。しかも、発売したばかりの「PS4 Pro」だ。ゲーム好きの弟さんのサプライズが爆発した。いずれ、4KテレビやPlayStation VRなどが手に入ったら未練なくこの世を去れる。
 
というわけで、完全に日記になっています。いつもいつも自分の考えていることをブログに書くことが主なので、こうして日常の出来事を書くというのはあまり慣れない。なんだか気恥ずかしくなるという感じなのかな。これがまるで書くことがないなと思っていても、とりあえず何でもいいから書き出してみると、案外文章が出てきたりして、自分でも思いのほか長文になってびっくりするんですよね。
 
改めてこうして日々の出来事を少しでも振り返ってみると、自分は恵まれているなということに気付く。家計を支えてくれているお母様に感謝だわ。
 
この前は彼女のお母さんが高血圧で倒れるということがあって、それを聞いたときは結構心配した。結局、大事には至らずに無事退院できたようで、自分は彼女のお母さんに会ったことは一度もないけれど、大事な人の大事な人に何かあるとこんなにも心配しちゃうんだということにも気付かされた。入院費もどうにかなったようで安心した。
 
改めてこういうことが起きると、自分の身にもいつ何が起きてもおかしくはないんだということを考えざるを得なくなる。うちの母親も高血圧だから、余計心配になる。
 
しかし、これから先何が起こるかわからないということを不安に思うばかりではなく、その時がきたらその時だ! という心構えで生きたいきたいと思う。場合によっては不謹慎に聞こえるかもしれないが、最悪なことも不幸なこともむしろ転換期だと思えば楽しみに待てる。何事も「さぁこいや」ぐらいの心持ちで生きていきたいと思う。
 
さっき自分は恵まれていると書いたけれど、前回の記事では、あまり満たされていないみたいなことを書いた。どうやら恵まれていることと満たされているかどうかには違いがあるようだ。そして、今思うのは「満たされない気持ちというのは健全な気持ちなのではないか」ということだ。
 
もしも、今に満足してしまったら、それを失ってしまった時が怖い。それに今に満足するということは停滞を認めることにもなってしまうんじゃないかと思う。そういう意味では、何が起きても構わないとか、あることに感謝するし恵まれているとは思うけれどそれを失っても構わないとか、そういった心構えみたいなものは自分を前に進ませくれるものなんじゃないかと思う。
 
もちろん今のままでいいと思うことは幸せなことだと思うし、今のままがいいと思うこと自体が幸せと呼べるのだと思う。けれど、今を見すぎればいつか転びそうだし、先のことを考えすぎると憂鬱になる。だから、きっと人間は今よりちょっと先を見続けているぐらいがちょうどいいのだと思ったりもする。
 
相変わらず俺は頭でっかちなこと書くなと思う。実際はそんなこと考えて生きているわけでもないのにね。ただ、なぜか文章に向き合おうとすると、理屈っぽくなるんだ。
 
ここ最近の記事では「幸せ」という言葉を何度も使ってきたけど、幸せってなんだろうかということについても考えておきたい。多分、自分の使う「幸せ」は一過性のものではない。ご飯を食べた後の「おいしい!」とか、お風呂につかった時の「あぁ~は~」とか、ふかふかの布団に入った時の何とも言えない気持ちよさとか、そういうものも最高だとは思うけど、それはあくまでも「多幸感」であって「幸せ」ではない。自分が普段から使っている幸せという言葉は、多分、もっと「連続的」なものだと思う。前回の記事では、それを「心持ち」と表現した。
 
自分の今の環境が恵まれているかそうでないかを決めるのは自分自身だ。そして、それは他人との比較では計れない。豪邸に住んでいれば幸せになれるわけではなかろうし、貧乏だろうが幸せですと言える人はいるだろう。
 
やっぱり自分に誠実に生きるということが幸せへの近道だと思う。悪いことはしたくない。許されれば、法律がなければ、悪さをしたいかと質問されれば、それはしたくないと言う。ただ、別に悪いことはしたくないだけ、それだけだ。
 
最近の自分はFacebookもTwitterも一切見ていない。本当に大切な連絡は直接届くだろうし、別に自分の知り合いや友達だからといってその人の情報を取り入れることが必須だとは思わないからだ。自分に集中すれば集中するほどわかることがある。それは、本当に大切なものはそう多くないということだ。
 
自分にとって大切なもの・好きなものを指折り数えて挙げてみればわかる。せいぜい10個挙がればいいほうだ。俺の道はそこにある。自分にとって大切なもの・好きなものが増えていく分には構わないが、数多の情報に触れることで自分の大切にしたいもの、自分の好きなものがわからなくなるというのが一番怖い。
 
俺に必要なものは少ないのだ。年齢を重ねるほどに、自分にとっての大切なものがより鮮明に見えてくる。自分は12~13歳ごろからパソコンに触れてきて、今はもう26だからだいぶインターネットというものに触れ始めて長い。今となってはインターネットは体の一部みたいなものだ。しかし、ネットの危険性は「本当にどうでもいいこと」に時間をかけすぎてしまうことがあるということだ。
 
惰性は脅威だ。知らず知らずのうちに「あってもいいけどなくてもいい」ものが「なくてはならないもの」になっていたりする。そして、それは他人事ではなく自分自身もそうだ。インターネットがなくなったら俺はどうなるだろう。まぁ、それを言い出したらキリがない。この世から食べ物がなくなったらどうしようとか、大切な人が自分の前からいなくなってしまったらどうしようとか、そういうことばかりを考えて今を犠牲にするのはもったいない。
 
というわけで、まったくまとまりがない文章になってしまった。本当に伝えたいことをピンポイントで言葉にできればいいんだろうけど、なにせ本当に伝えたいことがない。なぜ、ブログを更新しているのかもわからない。ただ、ブログを公開すると、仕事した! って気分になるのがいい。だから、これからも気持ちが乗れば書いていきたいと思う。そして、このブログを読んでくれている人にはありがとうと伝えたい。時に不愉快な気持ちにさせることもあるかもしれないけれど、読んでくれているという事実ただそれだけで嬉しくなります。
 
さて、そろそろスタバが閉まるので、ぼちぼちお暇しようかと思います。今日も一日お疲れ様でした。