みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

自立とは依存先を増やすこと。

「自立とは依存先を増やすこと」という言葉はよく聞かれるけど、もともと誰が言ったのかはちょっとわからない。でも、ことわざみたいによく使われる言葉はそもそもで的を得てることが多いと思う。この「自立とは依存先を増やすこと」も深く考えるほどになかなか味が染み出してくる。
 
自分は現在進行系で母親に養ってもらっている。ここだけをピックアップすると、なんだただのニートか、で終わっちゃうかもしれないが、一応自分にもどうして今の暮らしがあるのかを説明できるぐらいには過去を持ち合わせている。
 
ということで、自分の昔話をするついでに「自立とは依存先を増やすこと」についてちょっと掘り下げたいと思う。
私の生い立ち
自分は静岡県生まれで、義務教育を受けずに育った。かといって、家庭内で教育を受けるということもなく。自分が小さいころは両親が自宅で託児所をやっていたので、一応学校には行っていないけれど子供たちには囲まれて育った。それも短い間だったが。だから、別に友達がいたと言えるほどの記憶はない。多分、5歳ぐらいまでだったかな。
 
そして、学校に行っているていで言うと、小学校低学年ぐらいかな。弟と一緒に毎朝片道1.5kmぐらいの道のりを歩いて、頂上まで800mある山を登って帰ってくるというのが日課だった。もちろん自分たちの意思で登っていたわけではなく、父親の教育の一環みたいなものだったと思う。とはいえ、弟と二人で山登りをしていた頃は楽しかった。さすがに午前中に幼い男児が二人で歩いていると田舎ということもあって目につくせいか、畑仕事をしているおじいさんによく「学校はどうした!」って怒鳴られていた。
 
7歳ごろになると「麻雀」をしていた。煙草をふかしまくる大人たちに囲まれながら、牌を握っていた。うちの父親は俺ら兄弟を雀士にしたかったのかもしれない。父親は麻雀をやらせることも含めて口癖のように「英才教育」だの「スパルタ教育」だの他人に吹聴していたような覚えがあるけど、果たしてどこが教育と呼べたのかは今でもわからない。うちの父親一番弱かったからね、麻雀。
 
子供のころは本当にいろいろとしたな。「釣り」をして初めてメジナを釣ったのはいくつぐらいだったかな。10歳ぐらいだったかな。後は、バイクの後ろに乗せてもらって、何度か父親と二人で遠出をした記憶がある。生活保護のはずなのに、何度も車やバイクを買い替えていた親父だった。バレンティーノ・ロッシの乗っていたバイクのレプリカが一番印象に残っている。
 
バイクといえば、夜も深くなった頃に父親と二人で暗い山道をバイクで通っていた時だった。両脇が幅は狭いが深さが2mくらいある崖で挟まれた坂道で、バイクをそのまま走らせるのは危険なので一旦降りて父親がバイクを押して歩いていった。記憶が曖昧だが、自分はその場で待っていた。そして、父親がある程度坂道を昇った後に自分のことを呼んだ。しかし、歩くには死ぬほど真っ暗だった。真っ暗とは本当にあの事を言うんだと思う。懐中電灯も持っていなかった気がする。本当に星以外見えなかったので、足で地べたを確認しながらそそくさと進んでみた。大丈夫だと思って踏みしめたその地べたの葉っぱの感触もむなしく、案の定崖から落ちた。ギャーギャー泣きわめきながら、「パパ~!パパ~!」って泣き叫んだ。父親が伸ばしてくれた手を自分は握りしめて、そしてすくい上げてもらった。幸い怪我なく無事に助かったが、なんとも忘れられない思い出である。
 
事故的な思い出といえば、多分、10歳前後ぐらいだったかな。 うちの家族が住んでいたアパートは二階建てだったんだけど、超やんちゃな自分はふざけて二階の塀の外側にぶらさがってみた。しかし、案の定力がなくなって二階から落ちた。初めて救急車に乗った思い出。これまた無傷だった。これもインパクトのある思い出。
 
やはり、刺激が強い体験は思い出として色濃く残るのか、今いろいろと子供のころを思い出してみると、いたたまれない思い出しか浮かんでこない。ブログに書くのははばかれるので、あまりにも心に痛そうな思い出はこの胸に封印しておきたいと思う。
 
12歳ぐらいは初めてパソコンというものが家に届いた。このパソコンのおかげで自分と弟は地獄を見ることになるのだが、あまり詳細を書く気になれない。とりあえず、謎に一日10時間以上ゲームサイトで五目並べをやり続けることを父親に強制させられていた。ウルトラ地獄である。一度負ければめちゃくちゃ怒鳴られるので、まじで弟とともに集中力全開超絶本気で一局一局に臨んでいた。こんな日々がしばらく続いた。他にもどうしようもない思い出はいくつもあるが、この辺りで留めておきたいと思う。
 
12~13歳のころは転機だった。うちの父親がいたるところでトラブルを多発させた結果、拘置所に入ってしまった。とうとう前科6犯に。そのために長らく住んでいた静岡の家を追い出されてしまい、千葉県は海に近い町に引っ越した。たしか1年半ぐらい捕まっていたはず。正直、この父親がいない時期が一番楽しかった。父親の顔色をうかがう必要もなくなり、しかもオンラインゲームやり放題だったから。
 
しかし、戻ってきたからが人生最大の地獄だった。本当に思い出すほどに、信じられない出来事が溢れ出してくる。
 
そんなこんなで、15歳の夏に父親から逃げるために家をサンダル一つで飛び出すまでは本当に試練の連続だった。
 
逃げ出して間もなく、児童相談所へ。一ヶ月ぐらいいたが、どれも楽しい思い出ばかり。
 
児童相談所を出てからは、母親と弟と一緒に暮らし始め、数多の兄弟喧嘩などもあったように思うが、今は無事死なずに平穏な生活を送っている。
 
簡潔に昔話をしようと思ったけど、すごく長くなってしまった。お年寄りが昔話を始めると話が長くなるイメージがあるけど、自分も例外ではなさそうだ。
過去があってこその今
というわけで、過去の話を書いた。なぜ、過去の話を書いたのかというと、人には必ず過去があるからだ。過去がない人間なんていない。過去あってこその今だ。
 
自分は今、過去の話を書く上でいろいろと思い出してしまったが、振り返ってみるとどれも思い出だ。痛々しい思い出も、全部ただの思い出だ。過去は過去、今は今だ。過去に大した意味はない。過去は今の自分を形作ってはいるけど、だからって今の自分は過去に生きる必要はない。
 
星野源の「恋」という曲の歌詞に「意味なんかないさ暮らしがあるだけ」というフレーズがある。まさにだ。あるのは暮らしだけだ。人は自分の生活を向上させていきたいからこそ、夢を見たり恋をしたりするんじゃないかなと思っている。
自信がついた話
ここにくるまでに文章を多く書きすぎてしまったように感じるがようやく本題だ。
 
上記の自分の生い立ちで、父親から逃げてからの話になる。
 
自分は最初、家事も何にもしなかった。全部母親がやってくれていたから。仕事もこなし、家事もこなしていた母親は本当にすごい。
 
自分が18歳も超えた頃だろうか。うちの母親は職場の人と恋に落ち、お相手の住んでいる場所が隣駅ということもあってか、母親は彼氏の家に泊まるようになった。
 
そして、泊まる間隔が徐々に短くなっていった。最初は一日が、二日、三日、いよいよ数日は家に帰ってこないということが当たり前になった。
 
それについてうちの母親はとても罪悪感を感じているようだった。自分の子供をほったらかしにして、自分だけ幸せになってもいいのだろうかみたいなことを考えていたようだ。
 
しかし、自分は母親の幸せをとことん優先してほしいと思った。それに年頃ということもあり、狭い家に三人で住むよりかは弟と二人でいるほうがプライベート空間が多く取れた。
 
母親がほぼ家に帰ってこないということは、家事は全部弟と二人で役割分担してやらなきゃいけないということだ。この時ぐらいから初めて自分たちの洗濯物は自分たちで洗うようになった。
 
そして、冷蔵庫の食材がなくなったら自分たちで買いに行く。生活費は母親が口座に振り込んでくれるので、それをやりくりしながら自分たちは家事全般を覚えていった。
 
だから、今は炊事洗濯掃除はもちろん、買い物をする際の食品の価格までいくらくらいからが安くていくらくらいからが高いのか判別できるようになった。
 
この一連の行いが自分に絶対的な自信を与えてくれた。すべてを母親に頼らずとも自分たちでやっていけるんだという自信がついた。お金を稼ぐということだけは全くできていないが、裏を返せば、お金を稼ぐということ以外はすべて出来ているということだ。
自立とは依存先を増やすこと
自分は経済面で母親に依存している。が、母親も彼氏に依存しているのだ。これは善悪の話ではない。母親は彼氏の家に住んでいるが、光熱費や家賃はすべて彼氏持ちだと言っていた。
 
そして、その母親の彼氏も、生活は会社に依存しているという見方ができる。
 
自分は去年の一月くらいからたくさんの人とつながりを持つようになった。自分は大勢の人と会うことで何を手にしたんだろうかということを考えてみると、目には見えないセーフティネットを多く築いたように思う。
 
いざ路頭に迷いそうになったときにネット上であれ、つながりを多く持っていたりすれば、その場しのぎであるが、人に助けてもらう可能性がぐんと上がる。
 
それに友人と言える人たちとのつながりも大きい。自分は自分の家に誰でも泊めたいとは思わないが、自分の気心知れた友人が仮に住む家を失い、自分に助けを求めてくるのであれば、むしろ喜んで泊まってほしいと思う。それは、自分だけではなく、自分の友人も同じように自分を泊めてくれる可能性もある。
 
人とのつながりは精神面での救いにもなるが、本当にいざという時の頼りにもなる。自分は別段友人と「会いたい」と思うこともないが、それは、心の奥底でつながりを感じているからだ。くさい表現になるが、いつも心の中で会ってるからあえて会う必要もないじゃんみたいな感じだ。
 
この心の奥底では強くつながっているという感覚にこそ、自分は「人間関係」を見る。
 
人はそうした人間関係を通じて依存先を増やしていくのではないかと思う。
 
自分は母親に養ってもらっているが、少なからず依存先を自分の力で増やしているという感覚がある分、何もしていない時期と比べればずいぶん苦しみが薄れた。それは、自分の力でやっていけるという自信みたいなものがあるからだと思う。
 
これは友人と話していて「おっ」と思ったことなんだけど、その友人は接客業のバイトをしていて、接客業をする以上は「やばい人」にも応対する。そのやばい人たちと触れて、友人は思ったそうだ。
 
「この人が生きているなら、自分は絶対に生きていけるな」と。
 
自分はこの一言を聞いて、妙に納得してしまった。
 
自分の話になるが、自分はよく「生きてくれていてありがとう」というようなメッセージを頂く。
 
そして、「生きていてほしいと思われる人は死なない」。これは自分の友人が言った言葉だ。
 
自分はいろんな人たちからの言葉に勇気付けられている。
 
自分の中にたまっている言葉たちが、自分に「大丈夫だ感」を与えてくれる。
 
自分は、人の言葉の中にも「依存先」を見出す。
 
そうして自分の心は徐々に自分の足で立っていくのだと思う。
最後に
今回は「自立とは依存先を増やすこと」について考えてみた。かなり長文になってしまったが、これからも気が向けばこうして文章を書いていきたいと思っている。
 
自分が人から貰った言葉に支えられているように、自分の言葉で誰かを支えることができたらいいなと思う。
 
今の自分にできることは少ないが、今の自分にできることの最善は尽くしていきたい。
 
それでは、また会う日まで!