みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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生きる喜びとは。

「生きる喜び」を感じる瞬間とはどんな時だろうか。
 
そもそもで生きる喜びとはなんだろうか。
 
すべての喜びは一瞬の風のように過ぎ去っていくものだと思う。
 
だから、喜びは持続しない。
喜びを感じる瞬間
自分にとって、「喜び」を感じる瞬間とはどんな時だろうか。
 
自分は「欲しい物が手に入ったとき」に顕著に喜ぶ傾向がある。
 
今の暮らしだと生活必需品には困らないので、欲しい物があるとすれば、それは「贅沢品」になる。
 
正直、贅沢品に関しては無くても生活に支障はきたさないので、結局欲しい物があってもお金もないしという理由で諦めることが多い。
 
自分はそういうことを何度も繰り返していたら、「自分には物欲がない」と思うようになった。
 
 
つい先日のことだ。家にPS4が届いた。PS4は弟が購入し、メインのプレイも弟がする。が、自分は内心あわよくば欲しいなと思っていた代物だ。
 
だから、小躍りしてしまった。弟に多少のカンパを渡し、自分は喜々としてその恩恵に与った。
 
正直、ゲーム機自体は自分の生活に絶対に必要というわけではない。が、欲しい物が手に入ったという喜びは大きかった。
 
この「物欲」が満たされるという感覚は、自分にとって「生きる喜び」といっても差し支えないと思う。
欲しい気持ちを押し殺さない
「自分には物欲がない」。最初はそう思っていたはずだった。でも、いざ欲しい物が手に入ってみると想像していたよりもずっと嬉しく感じる。
 
欲しい→買えない→諦める。この行程を繰り返すことで、自分には物欲がないと思い込んでいた。
 
本当は違う。ただ金銭的な余裕がないから、買うことを諦めていただけだった。
 
自分に物欲がないと思い込むことで、本当は「喜び」を感じる瞬間を無下にしてしまうのはもったいない。
 
欲しいと思う気持ちは素直に胸の片隅に置いておこう。買えるようになった時にまだ欲しかったなら買えばいい。
 
物欲がないと思うことで得られるメリットもある。無駄遣いをしなくなるとか。それと「足るを知る」を実行せざるを得なくなる。
 
しかし、欲しいものは欲しいのだ。
 
メディアはよく「若者の〇〇離れ」といって、消費しない若者のことを揶揄したりするけれど、本当はただお金がなくて欲しい物が買えないことがほとんとだろう。
生きる喜びとは
自分は貧しさの中に豊かさを見出だせる人間でありたいと思っている。
 
いくら貧しくても、豊かさは目の前に転がっている。
 
蛇口をひねれば水が出る。冬に熱いシャワーが浴びられる。暖かい布団がある。寝床がある。インターネットに触れられる。
 
忙しなく動いていると気付かないが、ちょっとでも立ち止まってみるとそのありがたみに気付く。
 
幸せというのは気持ちだ。誰もが幸せになりたいという気持ちは持っているはずだ。
 
別に「贅沢品」に幸せが詰まっているわけではない。
 
自分の欲しいものが幸せを連れてくるのではない。自分が欲しいと思うものを手にしたときにそれに対する感謝の気持ちを持てるかどうかだ。
 
欲しいものを手に入れたとき、会いたい人に会えたとき、やりたいことがやれたとき、言いたいことが言えたとき、行きたいところに行けたとき、その全てに幸せが詰まっているが、その気持ちを感じることができるのかどうかは全部自分次第だ。
 
目の前にいる好きな人に対しても、日頃支えてくれている大切な家族にも、感謝の気持ちを忘れないということ。感謝する気持ち、それが幸せな気持ちだ。
 
自分は「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が好きだが、何に対しても誠実さを持つということが自分に感謝する気持ちを忘れさせないでくれる。
 
幸せはいま目の前にある。
貧しさに満足するな
自分は生活をより向上させていきたいと思っている。
 
経済面での貧しさに満足するつもりはない。
 
自分も含め、貧困に喘いでいる人は多いと思うが、決して貧困であることに満足してはいけないと思う。
 
それは欲望を満たしていきたいと言っているわけではない。
 
人は結局欲望を満たしても、また新たな欲望に支配される。
 
ジャック・ラカンも言っているように、人は他人が欲しがるものを欲しがる。
 
だから、欲望に取り憑かれては延々に終わりがないのだ。
 
けれど、生活がより向上していくことは「豊か」なことではないだろうか。
 
暮らしが豊かになる方法は「足るを知る」という気持ち的な面だけでは完成しない。
 
事実、生活に必要なものがあってこその暮らしであり、生活に必要な最低限の余裕がなければ豊かさを感じる心も生まれない。
 
以前見かけたツイートに「『お金が全て』と言う人は、根本的な生活問題が解決していない」という言葉があった。まさにその通りだと思う。
 
仕方なしに足るを知るのではなく、自分がどれくらいの暮らしで幸せな気持ちを維持できるのかは真剣に考えていきたい。
 
 
「人は信用できる。怖いのは人の中に潜んでる悪魔だ」
 
先日観た映画で印象に残ったワンフレーズだ。
 
この言葉を思い出すたびに、人に対する疑いの気持ちが薄れる。
 
それよりも怖いのはまさに「人の中に潜んでる悪魔」だ。
 
聖人君子でない限り、余裕がなければ人は人に優しくできない。
 
経済的にも精神的にも余裕が失われれば、人は自分の中の悪魔が表出しうる。
 
だからこそ、自分の生活をより向上させていきたいという気持ちは忘れるべきではないのだろう。
 
自分自身に対する諦めが、自分の中の悪魔を表出させてしまう原因にもなりかねない。
自分の力を信じよう
改めて、「人は信用できる。怖いのは人の中に潜んでる悪魔だ」という言葉を考えてみよう。
 
「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがあるように、人が罪な存在なのではなく、人の中に罪があるのだ。
 
そして、自分は「人は信用できる」というこのシンプルな言葉に心強さを見出す。
 
人が信用できないということは、他人に対する恐怖心が拭い切れないということだ。
 
人を暴力的にさせるのは己の恐怖心のみ。
 
他人に対する恐怖心があるからこそ、人は人に暴力を振るう。
 
まずは「人を信用する」ということが、己を強くするためには必要なのだろう。
 
自分の力を信じる。これは、人を信用する力のことだ。
 
たとえ裏切られ傷ついたとしても、それは、自分に課せられたより成長するための試練だ。
 
逆境や困難は立ち向かうためにある。
 
逆境や困難に立ち向かう力は、自分自身に生きる喜びとはどういうものかを教えてくれるはずだ。
 
それは、幸福を見つける力だ。人を信用する力だ。すべての機会に感謝する気持ちだ。
 
どこに「生きる喜び」を見出すのかは、すべて自分自身の手にかかっている。