みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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生きてるだけで丸儲け。

「人間の不幸は自分の為し得ること以上に欲望を満たそうとするところに生まれる。不幸は物がないということではない。むしろ物が欲しいと感じるから不幸なのである」- ジャン=ジャック・ルソー
 
欲しい物が買えない時などによく思い出す言葉である。今週は地べたに座り続けていたらいよいよ腰痛がひどくなってきたので、座椅子が欲しいと思っていた。しかし、座椅子を買ってしまったら今月使えるお金がなくなってしまうなと思って買うのを躊躇していた。クリスマスも控えていることだしというわけで上記のルソーの言葉を回想することで仏になろうとしていたところ、なんと今日弟に「君が使っているのと同じタイプの座椅子を買おうと思っているんだよね」と言ったら「座椅子はいいものだよ」と言った後に「俺がお金を出してあげようか」という発言があった。
 
私はここ二年ぐらいで養われた力がある。それは「受け取る力」だ。遠慮せずに相手の好意を受け取る。もちろん感謝を示すことは忘れないようにしている。ということで私はなぜか弟さんから五千円もらった。改めてありがとうございます、弟さん。
 
 
自分は欲しい物に関しても、自分がやりたいことに関しても、すぐに断念する傾向にある。例えば最近は自立したい欲が強く、計画は全く立っていないにもかかわらず引っ越しをしてみたいと思っている。しかし、実現が不可能そうだなと思えてしまうと願望がある分それに伴い失望も大きくなるので、"夢"みたいなものに関しては早々に諦めてしまいたくなる。
 
まさにルソーの「人間の不幸は自分の為し得ること以上に欲望を満たそうとするところに生まれる」だ。
 
しかし、こうしたことを考えていると今度は次のような言葉が脳裏をかすめる。
 
「あなたはあなたが妥協したものになる」- ジャニス・ジョプリン
 
これでいいやと妥協してしまうことで、自分自身は妥協した通りの自分に収まってしまうということだと思う。
 
 
夢など持たず今を謳歌していればそれでいいじゃないとも思うのだが、いかんせん将来のことについても目を向けざるを得ない自分がいる。多分、彼女がいることやこれから年齢を重ねていくということがそれを思う要因になっていると思う。
 
別に現実から目を背けたいとは思っていない。むしろこれから先については何が起こってもいいという気構えを持っているので、別に将来に対する不安はない。
 
しかしながら、将来について考えることが多くなると「今の自分を変えなければ」と強く思ってしまう。何かしらの行動をすることで自分自身の可能性を広げていきたい。そういう気持ちを原動力にすることができるなら社会に適合していると言えるが、あいにく自分は根っからの社会不適合者なので焦るばかりで行動が伴わない。
 
彼女とよく理想の話をする。自分は自立さえできれば人生クリアかなぐらいに思っていると言う。彼女は育った家庭環境もあり、金銭面での心配などをせず生きていけたらと言う。自分にとっての自立の定義は「親離れ」だから、変な話、精神論を抜きにすればヒモだろうが居候だろうが自立していると思うたちだ。だから、人生クリアのハードルが極端に低い。彼女は広い家に住んでペットを飼いたいと言う。自分は近隣を気にすることなく物音を響かせたいと思う。
 
欲を言い出したらキリがないが、どうせなら夢はでっかく持ちたい。しかし、理想を妄想すればするほどに現実と理想の剥離に憂鬱になってくる。今までは今を生きていればよかった。でも、理想を介すると途端に現実が冷めきったものに変貌する。
 
だから、自分にとっては夢や目標は今を生きるということを阻む邪魔者に近い。
 
正直、自分のことだけを考えていれば今のままでもいい。でも、親には楽をさせたいと思うし、それこそいざという時にサポートしてくれる存在であってほしい。自分が親にとっての足かせでなくなれば、親も自分も精神的に楽になるだろう。それに自分には弟という大切な存在がいる。いま住んでいる家の家賃を親が支払わずに済むには自分と彼女と弟と三人で生計を立てながら暮らすというのが最善手だ。
 
自分だけが幸せになることはできない。もっと言えば、自分だけが幸せになるということは不幸そのものだ。せめてでも自分の周囲の人が幸せでなければ自分は幸せを感じることはできないだろう。
 
ということばかり考えていると、悩みのループに突入し抜け出すのが難しくなってくる。将来が視野に入ってくると、今をおろそかにし全ては将来のためみたいな日々を送ることになる。挙句、その将来はいつまで経ってもやってこない。となると絶望度が加速し、最悪不安にかんじがらめになる。
 
何度も名言的なものを拝借してしまうけれど、自分はエピクテトスという元々は奴隷だった人の「人を不安にさせるのは物事そのものではなく物事に対する見解である」という言葉が大好きだ。将来に対する憂いや不安そのものに溺れそうになった時には何度も思い出す。
 
自分はいつだって同じ男でありたいと思う。生きていれば悩みがあるのは当然だ。今の自分にできないこともできると思い込んでしまったり、本当はできることをできないと諦めてしまったりもする。それでも、一つだけはっきりしていることがある。
 
それは、「生きてるだけで丸儲け」ということだ。
 
この言葉は自分の心の乱れを制御してくれる。
 
先日、母と話をしたときに「生きてるだけで丸儲けだよね」と言ったら、「本当にそうだよ」と同感してくれたのが何だか妙に嬉しく感じた。
 
正直、母親に対しては過去にこれはやめてほしいなと思うことはあった。例えば、求人誌や履歴書を持ってくること。自分は義務教育を受けていないということもあって、字が書けないことがコンプレックスだった上に履歴書上に「中卒」であることを示すために自分が行ってもいない中学校の名前を記入しなければいけないということも嫌だった。
 
学校側の計らいもあり卒業証書だけは貰っていた。自宅に校長さんが来て直々に卒業証書を手渡ししてもらったのを覚えている。だから、一応書類上は中学校卒業ということになる。しかし、自分たち兄弟はひとつの意見で合致していた。
 
「俺たちの履歴書は白紙なんだよ」
 
母親は多分、苦しんでいる自分たちの姿を見て何とかしてやりたかったんだと思う。父親から逃げ出し、心の傷も癒えないままに社会に飛び出し、日雇いの仕事などを経て社会の洗礼を受け、次第に希望が絶望に変わっていった自分を救ってあげたかったんだと思う。
 
母親自身働きながら子供たちにしてあげられることはそう多くない。多くないどころか養うということそれだけでも偉大なことだ。だから、今ならあの頃の母親の愛情みたいなものを感じられる。
 
自分は今、心の葛藤が多少なりともある。でも、それは自分の力でなんとか前に進もうとしている意識の表れだ。だから、何度でも思い出していきたい。「生きてるだけで丸儲け」なんだよと。
 
ここ二年間で友人というものができた。今までは考えられなかった彼女という存在も作ることができた。
 
以前母に向かって「今は幸せだよ」と言ったら、母は「幸せなのが一番」と言ってくれたことがある。
 
だから、今は本当に生きてるだけで丸儲けだと思える。
 
自分の家族や恋人や友人が自分という存在を認めてくれたおかげで自分はいま生きていられるのだ。自分がいま安心感を持って生きていられるのは自分の身近にいる人たちのおかげだ。
 
今は改めて生きていることに感謝したいと思う。先日ブラジルのサッカークラブ「シャペコエンセ」の選手や関係者が乗った飛行機がコロンビアで墜落するという悲劇が起こった。70名以上が死亡した。世界中の人たちが祈りを捧げた。ここで哀悼の意を表します。
 
自分だけではなく、すべての人に幸せが訪れますように。