みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

それぞれの生きる道は、天によって完璧に決められていて、それでいて完全に自由だ。

バガボンドからの引用である。これまでもこれから先も、それぞれの生きる道は、天によって完璧に決められていて、それが故に完全に自由だ。お前の根っこを天に預けている限りは。
 
近年稀に見る素晴らしい言葉に出会った。というのも、自分の「こういう思想でありたい」という願望を一言で表現してくれているからだと思う。
 
他にもバガボンドでは、「好きなように生きなさい」とか、「強い人は皆優しい」とか、印象に残った言葉は数多くある。
 
その中でも、「それぞれの生きる道は......」という言葉は、自分のど真ん中に突き刺さった。こういう言葉に出会えるから、サブカルチャーはいい。
 
自分は昔から、文章を書くときは「人を自由にさせる言葉」を(難しいが)書きたいと常々思っていた。こうして自由を与えてくれるような言葉に出会うと、改めてその思いが強くなる。
 
 
最近は完全に暇を持て余している。いや、暇じゃないんだけど。暇を持て余したいから持て余しているんだけど、そうした時間の中で、たまにブログを書きたくなる。
 
自分は「気持ちが乗ったとき」に文章を書きたいと思っている。だから、体験談はいい。だって体験はいつだって人との関係性があるから、相手に思いを伝えたいという気持ち、それだけで十二分に「物語」として完成する。
 
生意気なことを言わせてもらうと、文章には「物語」が必要だと思う。個人的なブログという媒体なら尚更だ。自分の考えていること、つまりは思想というものを伝えたいならば、物語を通して、"学び"を伝える必要がある。
 
「自分はこういう体験をした。その体験を通じてこう思った」。シンプルにこれだけでいい。しかしながら、自他ともに認める不器用者の私は、何か(大切であろうこと)を意識して、思いを伝えるということができない。
 
だから、「私はこう思う」という要点しか伝えられない。というわけで、今回も要点だけ伝えていきたい。(私の紡ぐ言葉は必ず私の人生の経験からきているものだから、どんな言葉を紡いだとしても、それは私という物語の一片であるという自分への赦しの一言をここに書いておく)
 
 
今日は記事の題名でもある、「それぞれの生きる道は、天によって完璧に決められていて、それでいて完全に自由だ。」という言葉の意味するところというか、この言葉から受けた自分なりの解釈を書き連ねていけたらなと思う。
 
というわけでいきなりだが、すべての苦しみの根源には、「自分の力でコントロールしようと思う力」が働いているのではないかと思う。
 
「あの人の態度が気に食わない。だから、どうにかしてやろう」。自分で書いていて思ったが、これはなかなかに最低な意識の持ち方である。
 
「自分の力で他人を変えよう」。すばらしくおこがましい。例え話もなしに申し訳ないが、自分の考え方で物申すと、こうした「自分は正しい」という絶対的な思い込みが招く、「悲惨」は数知れずあるのだと思う。
 
もちろん他人事ではない。私だって赤の他人の態度にイライラしたりもする。はっきり思うのは、イライラしている時点(怒っている時点)で敗北だ。
 
人生の態度でもっとも大切だと思うのは、「怒らない」ことだ。マザー・テレサの名言を引用させてもらう。
 
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
 
思考から全てが始まるとすれば、まずは「怒らない」ということを意識することができていれば、自ずと平和な世界は開けていくような気がする。
 
言ってしまえば、「イライラすること」は「反応」であると思うから、どう意識を持ったところで難しいときはある。(ゆえに怒りは無意味だが......)
 
ただ、どういう心持ちで生きるかは人生を決めると言っても過言ではない気がしている。それならば、「争いごとは避けて生きたい」と自分は思っているので、可能な限り「怒らない」は肝に銘じておきたい。
 
「怒り」は「自分の思うようにならない」という感情が招いている悲劇だ。「自分の力でコントロールできると思っている」というのもまた悲劇といって差し支えないだろう。
 
幸せだから笑うのではなく笑うから幸せという言葉を借りるのであれば、不幸だから怒るのではなく、怒るから不幸なのだ。
 
 
「天によって完璧に決められている」。この言葉を言ったのは、バガボンドに出てくるお坊さんこと沢庵さんだ。主人公の宮本武蔵は、「川の流れ」を見て、この言葉の意味するところに気付いた。
 
「広い川と狭い川、緩い川底と急な川底、水…水の流れる先がどこか。流れのはやさ、遅さ。水自身は決めていない。ただ従っている。川底の地形と……風や外からの力に、完全に決められてる。(完璧に決められていて…それが故に…完全に……) 」
 
「急な勾配、狭い川幅、速く鋭い流れ。地形によって、外からの力によって、水のありようは完全に決められ、水自身はただそれに従っている。外からの力によって―――。ありようは完全に決められ、それでも水は水。どこまでも水。完全に自由―――――――」 バガボンド35巻から引用
 
人間もまた同じであるように思う。地形によって水の流れが決まるように、人間もまた環境やその他もろもろによって、ありようは決められている。
 
人生は決まっている。これまでもこれから先も、我々の生きる道は決まっている。天によって。
 
この言葉のあとで、沢庵さんは「お前が望む限り」と言った。「根っこのところを天に預けている限りは」と言った。多分、この考え方をお前が信じる限り、お前は完全に自由だ、と沢庵さんは伝えようとしてくれたのだと思う。
 
自分の胸は共鳴した。
 
私は思う。自分にとって必要なのは、「諦め」なのだと。ひとを変えようとする(自分の思いのままにしようとする)必要はない。ただ、川の流れのように、時の流れに身をまかせるように、そんな風に生きていけたらいいのだ。誤解を恐れずに言うと、意志は無意味だと言っているのではない。意志はいい。これからの人生をどういう意識を持って生きていくかを決定できるから。
 
天によって完璧に決められている、そして自由。一見矛盾しているようなこの言葉は、なにゆえに矛盾しているように感じるのか。そこには意志の存在の有無がある。
 
天によって完璧に決められているなんて、なんて不自由なんだ、と考えるに至るには、天によって完璧に決められているということを聞いて、人生と天との間には意志が介在しないと、そう認識してしまうからだ。
 
否、沢庵さんは「完全に自由」と言っている。それを聞いて、どう思うのかは完全に自由だ。この言葉を掘り下げていくほどに、圧倒的な自由を前にすることができる。ゆえに人生には責任もあるし、ひとには道徳も必要だ。
 
 
言葉はただの容れ物だ。大事なのは言葉の意味するところではなく、どのような気持ちでその言葉を紡いでいるかにある。この完全なる自由感、どうか少しでも自分の言葉で伝えてみたいという欲望が、この記事を書いている動機だ。(と書いている自分もまた天によって完璧に決められており、それがゆえに私は何をしてもいいのだ。恥ずかしい記事を書いてブログに投稿してもいい。だって、それは天によって...略)
 
本当は自由意志がなんちゃらかんちゃらで決定論がどうたらこうたらで原子が云々とかいろいろと書いてみたかったのだけど自分にはハードルが高すぎた模様、的なことを弟に伝えたら、弟は「原子と聞いて色即是空を思い出した」と言ってくれたので、そうそれだ! となった都合のいい私である。
 
世の中はわからないことだらけだけど、自分はなるべく楽になる考え方をしたいと思っている。なので、「それぞれの生きる道は、天によって完璧に決められていて、それが故に完全に自由だ」という言葉は好きだ。もう、好きだ、という気持ちだけでいい気がしてきた。