みっつ通信

みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

2月の合言葉は「考える」

普段から考えているばかりいるくせに、今月のテーマは「考える」がいいかなと思っている。
 
ブログの続け方」なんてブログ記事を書いておきながらも、まったくといっていいほど更新していない。
 
今日こうしてブログを更新できているのは、カフェに来ているおかげだ。家にいると、なかなか気が散ってしまい、文章を書くことに集中できない。が、カフェにいると、どうしても文章を書くか、もしくは相方と喋るかぐらいになる。いつも彼女とはよくおしゃべりしているので、今日ぐらいはしっかりと文章を書くことに集中してみようと思う。真ん前に座っている彼女をちら見しながら。
 
といっても、相も変わらず書くネタはあまりない。そうだ、ネタという言葉で思い出した。自分はブログを書いたあとで、彼女や弟によく「ネタとして読んでほしい」と言う。なんというか、自分はブログに嘘偽りを書いているつもりはない。だから、今もこうして書いているこの文章は限りなく本心に近いものだ。けれども、本心をさらけ出しているからといって、それが私を表現しきれているかというとそうではないと思っている。
 
今日は、文章力とそれが与える印象について書いてみようと思う。
 
この前、弟に言われたことがある。それは、「君の文章と本当の君は違う」ということだ。これは「お前はお前を偽っている」ということではない。否定ではなく、それが事実なのだ。そして、それを聞いた自分自身も「本当にそうだな」と思った。
 
このブログでは私という人間は、私の文章力によって表現されている。だから、どうしても私の文章力によって、私という人間が伝わる。あるひとから見れば、私は「まっすぐなひと」かもしれないし、もう一方のひとから見れば、私は「癒し系」かもしれない。「こんな人っぽい」という印象を与えることはインターネットに自分の言葉を書いている時点で避けては通れないし、そういった印象を持つこと自体も何の問題もない。ただ、強いて言えば、私は多面的であると思う。人の数だけ印象があるとすれば、私という人間はその数だけ存在しているとも思える。
 
あるひとが、たとえば私のことを「かわいいひとだ」と思っているとき、実際の私は彼女や弟に醜態を晒しているかもしれない。不機嫌に負けて、怒りっぽくなっているかもしれない。そのリアルを知っても尚、誰かが私のことを「かわいい」と思うのであれば、それは私がかわいいのではなく、かわいいと思っているひとがかわいいのだ。
 
そう考えると、文章上で与える印象と、リアルの私が違うのも頷ける。むしろ、違って当然なのだ。そういう理由もあって、私はひとに「ネタとして読んでほしい」と言う。本気にしないでくれと言っているというよりは、あんまり真に受けて、私を想像上の私にしないでほしいという願望の表れだ。
 
最近はぽつぽつと優しいメールをいただくことが多くなった。メールが届いた瞬間は嬉しさを覚える。けれど、メールの文面を読んでいると、場合によっては「誰の話をしているのか」、「なぜ私の人生にアドバイスしてくるのか」という疑問が湧いて出てくる。これはカルマかもしれない。生まれ持った気質が私に「なぜ?」を考えさせる。
 
私の印象は、私の文章力に依存していると思う。意図せず、私の文章の行間に自信のなさが表れ出ていて、それがひとに「こうしたほうがいい」と言わせているのかもしれない。私が本当に伝えたいことがねじ曲がって伝わってしまったとすれば、それは読む側の読解力云々の話ではなく、私が私を表現しきれていないということになる。
 
きっと、文章で大事なのは、いかに気持ちを乗せることができているかどうかなのだと思う。下手でもいい。私は気持ちを込めて書けているだろうか。正直に書けば、私の人間性が誤解なく伝わるはずだ。文章力を磨き上げてくれるもの、それは正直さだと思う。
 
そもそもでなぜ書くのかという問いに行き着く。本当は与えたい印象なんていうものはなくて、ただ、「私はここにある」ということを伝えてみたいだけなのではないだろうか。ひとを求めるとき、それは寂しさからくるものであったり、日々の充足感を得たいからとか、いろいろな理由がある、きっと。でも、自分は、この世界、同じ時代に生まれた奇跡を誰かと分かち合いたいだけだと思う。生きるためにはこうしなければいけないという話よりも、よくぞ出会えたね俺ら、と言い合いたいだけだ。その気持ちこそが自分を前向きにさせてくれているのだと思う。
 
私はここにあるから、もうそれだけ充分だ。同じ時を生きているだけで、もうそれだけで充分なはずだ。
 
自分自身の文章での表現力がいかほどのものなのか、私は自分で測ることはできない。「文章がすばらしい」と褒められたとき、私は「本当にそうなのか」と考えてしまう。一言だけ言えるのは、自分が「この人の文章上手いな」と思うとき、少なくとも自分の文章についてはまだまだだなと思う。卑下ではなく、ただ率直にそう感じる。自分は自分の未熟さや弱さを認めたときに初めて「もっと先がある」と思えるのだ。それは、希望だ。
 
今こうして自分の気持ちを伝えようとして、それが誰かの胸に漂着すること、それだけが自分と世界をつなぎ止めてくれる架け橋になる。自分なんかだめだと思ってしまいそうなとき、文章はあるがままの私を思い出させてくれる。一体感を生み出してくれる。自分と世界が切り離されそうなとき、私はまた考えるだろう。そして、またそれを言葉にする。そうして、「私はある」と伝えるたびに、私はもう一人の私に「生きろ」と言われるのだ。