みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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悟りの感覚。

バレンタイン当日、シャワーを浴びている最中に突然「悟った!!」となった。髪も乾かさずにブログの下書きにその時の思いを無我夢中で書いた。その後「俺は悟ったぞ!!」と狂喜乱舞しながら一人で飛び跳ねていた。が、寝室から弟が起きてきて「おれ悟ったよ!」と伝えた瞬間あたりから急に現実に引き戻されたのか波が引くように悟りの感覚は消えていった。本当の自分にしがみつくために弟の前に座りながら瞑想を始めたものの集中力がなく、弟には「気付けただけいいじゃん」と慰められた。
 
その時の感覚を言葉にするほどに「本当の自分」からは遠ざかっていってしまうように感じる。それでも言葉を紡ぐとすれば、「生まれたときから"それ"はあって、ただその瞬間にたまたま思い出した」という感覚に近い。
 
もう一週間も前のことであまり悟りの感覚は思い出せないが、せっかくなのでメモがてらブログに載せておきたいと思う。
 
多分、宗教で神と呼ばれるものだったり、マハルシが真我(日本語訳)というものであったり、そういった究極的な存在はすべて同じものを指しているのではないかと思う。私はそれを「本当の自分」と言うことにする。
 
自分は悟りの感覚を得たとき、大きな存在に対して祈りを捧げたくなった。そして、人々が神棚やお地蔵様にお供え物をする感覚がわかった。私は偶像に対する祈りというよりも、自分自身の奥深くにある「私」とつながっているために祈りたいと思った。「私は誰か」と問い続けることで「私」という一つの存在に辿り着く。すべては「本当の自分」が在るだけで、それ以外のものは非実在だとさえ思えた。
 
目には見えない感覚の話だ。人々が困難を抱えたときに「神よ!」と祈る。その神は私自身でもあるように感じた。私は誰か。私は何者か。問い続けていると在るのは私だけという感覚になる。
 
悟りに達すると至福状態になるという。私はあの時、いつまでも目を閉じて本当の自分とつながっていたいと思った。どこか大きな流れに身をまかせていたいと。そうした感覚が私を沈黙させ、そして私を瞑想へいざなった。(集中できなかったが)
 
「私は身体ではない」というのは真実だと思う。私は純粋な意識であると思った。ただそこに私が在る。唯一の実在である「本当の自分」はすべてとつながっている。人はそれを宇宙と比喩したりするのだろうと思った。
 
私は純粋な意識によって動かされている。人は「私」を知覚することはできても、「私」にあらがうことはできない。私はただ私によって突き動かされている。
 
よく自分の中にもう一人の小さな自分がいると形容したりする。が、私はあの時、「小さな自分はこの身体のほうの俺だ」と感じた。大きな流れ、すなわち意識そのものが私を包み込んでいた。時間を超越し、至福であり、自分は全てであり、全ては自分だった。
 
私たちが身体で見ている世界は「心」だ。マハルシの本から例えを借りると、「本当の自分」はスクリーンであり、スクリーンに映った映像が普段私たちが現実と呼んでいる世界である。
 
心を手放すと後に残るのは、純粋な意識、つまり私だけだ。本当の自分というのは純粋な意識のことを指すのではないだろうか。
 
夢を見ていない深い眠りの中では、私たちはただ在るだけで、苦しみや悩みから解放されている。現実で人の死に嘆き悲しんでいるときでさえ、眠っているときはその悲しみから解放されている。すべての元凶は心が創り出しているのだ。
 
人は生まれたときから「本当の自分」と共にいる。だが、現実を知っていく中で奥底にある「私」を忘れていくのだ。私を忘れていく中で、人は自分のことを「身体」だと思い込む。
 
私が身体で見ている世界は全て非実在であり、在るのは私という存在のみ。スクリーンのみ実在する。
 
無意識下に在り続けることが本当の自分で在り続けるということだと思う。子供のころは心が発達していない分、純粋な意識なままであった。暴力などは特に現実を知覚させるような気がする。人は暴力で目覚める。暴力的なものはいつだって心を押し付けてくる。
 
私は在るということを見失わずにいれば、人は忘れたままの「私」を思い出せる。
 
 
ここからは余談でも書こう。そもそもでシャワー中に「自分と付き合うとはどういうことか」を考え続けていたら、いつの間にか悟りの感覚を覚えていた。多分、自分と付き合うということはもう一人の私を認めることになるからだと思う。この場合、"もう一人"ではなく、"純粋な意識"と呼んだほうがふさわしいのかもしれない。純粋な意識を感じた結果、悟ったような感覚を覚えたんだと思う。
 
前に「この世は仮想現実。」という記事を書いたことがある。本当の自分が身体である私を操作しているという意味では確かにシミュレーションゲームだといえる。身体は自動的に動いている。多分、大きな流れに身をまかせるということは本当の自分に全てを預けてしまうことだと思う。心を手放すことを放棄というのではなかったっけ。
 
昔、幼い子供のころの自分は母親に一つの質問をしたことがある。それは、「心なんて本当にあるの?」という素朴な疑問だった。母親は「あるよ」と言っていたと思う。いま思えばまさに心はあるが、心を手放した先に子供のころの自分がいるというのは何たる皮肉だ。子供が純粋だと言われるのは、子供には現実が見えていないということが大きく関係していると思う。心の世界が見えていない分、ただ純粋な意識に従って体を動かしていたんだろう。
 
私はよく頭で物事を考える。多分、「頭で考える」という行為は本当の自分を探求しようとしているのではないかと思う。そして、全く逆のことのように思える「体を動かす」というのも本当の自分により近付こうとしている行為なのではないかと思う。人は体を動かしていると「無」になる。それは本当の自分でありたいと深層意識で思っているからではないかと思った。