みっつ通信

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みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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過去の話。

風呂上がりにベランダに出る。冬の風が体を冷やす。夜空を見上げる。星が瞬いている。と、思ったら飛行機だった。外の風に当たろうと外に出るときはいつも、自然と自分の視線は空へと向かっている。
 
見慣れた景色は無機質なものばかりで、私が唯一見ていたいと思えるものは空だけだ。空の中には変化が潜んでいるように感じられて、ベランダから見える駐車場よりもずっと、私を自由にさせる。
あの日
私は、ひとが思春期という年頃には父親から手痛い仕打ちを受けていた。多分、ひとはそれを暴力や虐待と呼んだりするのだと思う。私にとって、"それ"はあまりにも当たり前の日常だったから、その時その瞬間に「自分は暴力を受けている」とか「自分は虐待を被っている」とか、そんなことは一度たりとも考えることができなかった。逃げるすべを知らなかった私は、ただひたすらに父親からの暴力に耐える。必死で、「生きること」だけを遂行していた。
 
いま私には一緒に暮らしている弟がいる。私とは1年半、歳が離れている。弟も私とまったく同じように、(主に精神的な)暴力を受け続けてきた。
 
ある日のこと、父親と私と弟は、自転車に乗り電気屋へ向かった。たしか当時は電気屋に用事があったわけではなく、日々の日課として、自転車で電気屋に行って帰ってくることをトレーニング(運動)としていた時期だった。
 
いつもそうだった、自転車に乗っているときは前方に走る父親を一生懸命弟と二人で追いかける。その日の帰り道の途中も、先をいく父親に距離を離されないように、私と弟は息を切らしながら必死でペダルを漕いでいた。
 
そんな中で突然、父親は一旦自転車を降りたかして、私たち兄弟に向かって「お前らは"あそこ"で待っていろ」と言ってどこかに消えていってしまった。あまりにも一瞬のやりとりのせいか、正直わからなかった、私と弟は、父親の言う"あそこ"がどこなのか理解できなかった。
 
私と弟は「たしかあの辺って言ってたぽいよね」と話し合い、父親が指したであろう道路脇で待機することにした。しかし、いくら待っても一向に父親が戻ってくる気配はなく、私たち兄弟は「パパはもしかしたらもう一人で家に帰ってしまったのかもしれない」(当時は父親のことをパパと呼んでいた)と、一度家に帰ってみることにした。
 
家に到着すると、父親の姿はなかった。私たちは「どうしよう」と思った。結構な距離があったが、また戻って、そこで父親を探してみようかと二人して迷っていたのを覚えている。しかし、戻っても父親がいる確証はない。それに「あそこで待っていろ」と言った、その"あそこ"がどこを指していたのかわからない以上、戻ってもすれ違いになる可能性が高い。だから、私たちは父親が帰宅するのを玄関の外で待つことにした。
 
その時の心情は今でも少し覚えている。あれはそれなりに大きな「罪悪感」だった。"あそこ"が理解できなかったことで自分を責めているだけでなく、家に「帰ろう」と選択した動機が『父親に対する反抗的な側面』も少なからずあったからだと思う。
 
玄関前で15分~30分ほどだったか待っていると、父親が自転車で帰ってくるのが見えた。記憶が曖昧で思い出せない部分もあるが、父親はかなり激怒しており、開口一番私たち兄弟に向かって「バカ!」と怒号を飛ばした。
 
当然、私は事の顛末を説明しようとしたが、聞く耳は持ってくれなかった。それから父親は二階の部屋に駆け上がり、大声で「バカ! バカ! バカ!」と何十回も何百回も叫び続けた。
 
私と弟はそのエンドレスな「バカ!」を一階の部屋で聞き続けていた。しばらくして母親が仕事から帰ってきて、何事かを問い、私は事情を話した。
 
あの時の「バカ!」という叫びは今でもよく思い出す。本当に恐ろしかった。しばらく叫びが続いた後、事態は沈静化せず、より荒れた様相を呈していった。
当時の状況
話は変わる。当時、私が15歳で、弟が13歳だった。千葉県の海が近い町に住んでいた。その町に引っ越すまでは静岡県に住んでいたが、父親がトラブルを多発させていたので、家を追い出され、流れに流れて千葉県に住むことになったのだった。
 
静岡から出るはめになったのは父親が拘置所送りになったのがきっかけだった。それまでは父親は「てんかん」という病気を抱えていたので、私たち家族は生活保護で暮らしていた。蛇足になるけれど、父親は私たちに病気であることを知らせてはいたが病名までは明かさなかった。今でもなぜだろうか、と思う。「てんかん」という言葉を電話などで発しなければいけないときは、私たち兄弟を「向こうの部屋に移動させてくれ」とよく母親に頼んでいたような気がする。千葉の家に住んでいるときに母親が誤って私に「てんかん」という言葉を発したことによって、私は父親はてんかんであるということを知るに至った。てんかんという病気にはいろいろな症状があると聞いたことがあるので、もしかしたらそういった理由で病名を隠していたのかもしれない。
 
私と弟と母親は、父親が拘置所に入っている間、三人で千葉県の家に住むことになった。多分、三人で過ごせたのは半年間ぐらいだった。いま思えば、生まれて初めて「自由」を感じることのできた時間だったのかもしれない。楽しくてゲームばかりやっていた。
 
そして、そんな楽しい時は終わりを告げる。父親が家に帰ってきた。父親は静岡を出る前からそれなりにおかしくなってはいたが、拘置所から戻ってきた父親はより一層おかしくなっていた。面白"おかしく"なってくれていたらよかったが、完璧に狂い始めていた。例えば、てんかんゆえに車を手放さければ生活保護が支給されないというのに、父親は「母親を苦しめる」、ただそれだけのために車を売らずに母親に生活費を稼ぐことを強制した。母親は当時老人ホームで朝から晩まで働いていたので、肉体的にもさぞ大変だったろうに、帰ればうちの父親に「働くって大変だろう!!」と怒鳴られていたんだから、一切休める時などなかったであろう。
 
それだけでなく父親は一日にアイスを何個も食べ、ぶくぶく太った。120kgぐらいあったと思う。身長173cmで。食費がかさむだけでなく、常時エアコンをつけるものだから、月の電気代が3万円を超えているときもあった。母親は勤務時間が長かったので、私たち兄弟のそばにいられない時間も多く、経済面も含めてたくさんの心労を抱えたことだろう。ようやく家に帰ってきたと思ったら、今度は真夜中にアイスを買いに行かせられる。よくぞ生きたねマザーよ。あなたのおかげで私は今日も生きています。
父親が戻ってきてから
父親が拘置所から戻ってきてから、私たちが父親の元を離れるまでの約1年半は、それはもう壮絶な期間だった。父親は暴力の証拠を残すのを避けるために、私たちの肉体に傷が残るような暴力を振るうことはしなかった(平手打ち or グーパン or 物を投げてくるくらい)。幸か不幸か、強烈な精神的ダメージだけを私たちは受け続けた。
 
いくつかケースを挙げてみようと思う。
 
父親の体を私と弟が「マッサージ」するのは義務みたいなものだった。幸い、性的なマッサージをしろという命令はなかったけれど、常時というレベルで肩揉みや全身マッサージをさせられていた。一日5時間以上は当たり前だ。特に寝る前は父親が眠りに落ちるまでマッサージをしなければならなかった。ようやく父親が大きないびきをかき始め、私と弟は「解放されるぞ!」と父親を起こさないように忍び足で部屋を出ようとすると、父親は超絶物音に敏感なのもあり、すぐに起きた。そこで言うのだ。「マッサージしてくれ」と。いま思い出すと笑える。真っ只中にいる時は当然笑えないが、今だと書いていてちょっと笑ってしまうぐらいだ。
 
マッサージは毎日の習慣だった。
 
他には英才教育という名の碁会所通いなどがあった。私は義務教育というものを受けずに育ったので時間は無限にあった。将棋や囲碁や五目並べや麻雀や競馬や花札やゲームやパソコンやキャッチボールなど色々なことをしてきた(させられてきた)。それら総じて一瞬で父親の実力を上回る我ら兄弟。
 
「囲碁」については隣の市にある碁会所まで自転車で通っていた。往復40kgを毎日だ。数ヶ月で私と弟はアマ三段と言われるくらいの実力になった。囲碁で学んだことは、「プロってすごい」ということだ。アマとプロの差は歴然としている。当時の私でも、プロ初段を相手に置き碁で9子置いても勝つことは不可能だったと思う。
 
往復40kgで思い出したけれど、「自転車」もやばかった。私と弟は毎日の義務として、家から目的地である海岸まで、往復35kmある道のりを二人で走って帰ってこなければならなかった。当時住んでいた家は海に近いとはいえ海まで10km弱、そして目的地である海岸までが家から片道17~18km。来る日も来る日も走った。雨ニモマケズ風ニモマケズ。救いはママチャリではなくロードバイクであったこと。
 
自転車といえば思い出深いエピソードがある。あの日はたしか一度海岸まで行き、家に戻ってきた後だった。その時も毎度のことながら父親が何かしらの要因で不機嫌を爆発させており、今度は海の方角とは反対側にある山のほうへ行ってこいと言われた。海のお次は山である。私と弟はもう日が暮れてしまった後の暗い山道を自転車で昇っていった。坂道の途中に寂れた駐車場があり、そこが目的地だったが、私は反抗期ということもあり、弟と二人しておにぎりを食べていたのを覚えている。すぐに戻らずにおにぎりを食べることが最大の反抗だったのだ。そして、帰宅する。が、案の定、「遅いじゃないか!!」と怒鳴られる。よって、今度は罰として「海まで行ってこい!」となった。多分、この時点で50kmは走っていたと思う。山のお次は海である。もう夜も遅くなっていたと思う。言うことを聞かねば殺されるという恐怖があったので従うしかない。私と弟はまた出発する。そして、もうすぐ目的地の海岸に着くというところで、私はいい加減身も心もズタボロだったせいか、半分八つ当たり気味で隣を走る弟に自転車でアタックをしたのである。弟は転んだ。弟は幸い無傷だったが、自転車に付けていたライトが壊れてしまった。私は「どうしよう」と思った。嘆いていても時は過ぎるだけなので途方に暮れながら家に帰る。ライトを壊したことを母親に報告すると「わかった」と言って、ライトが壊れたことがバレないうちにまた買ってきてくれるということになった。
 
オチというオチはないが、印象的な一日だった。トータルで80kmは走ったと思うけれど、あの当時の私たち兄弟は自転車で一日60km以上を走るということは往々にしてあったので、肉体的な辛さはそれほどでもなかったような気がする。何より、父親の元から離れられるという意味では「自転車に乗っている間」のほうがむしろ楽だった。
 
現在の私はママチャリで公道の脇の細い歩道を走ることが怖いと思うくらいには衰えてしまった。無事故で何百キロも走っていた当時の私に対して格好がつかない。
 
「パソコン」についても色々なエピソードがある。例えば、インターネットで五目並べを一日10時間以上プレイさせられるという鬼のような日々もあった。負けたら怒鳴り散らされる。それと父親はよく顔も知らぬ相手と「チャット」をしていたが、キーボードを打つのが遅かった父親はだいたいのタイピングを私にまかせていた。父親がチャットで伝えたいことを声に出し、私がそれを聞いてタイピングする。おかげさまでタイピングが速くなった。ライブ配信で父親と共に私が顔を出したこともある。チャット部屋にいた見知らぬ人たちに「昭和のアイドルみたい!」と言われたのを今でも覚えている。父親は上半身に相当の入れ墨が入っていたので、よくそれをネットを使って他人に見せびらかしていた。私は父親の代わりにタイピングを打つ合間合間に、父親の肩を揉んでいた。
 
父親はパソコン上で何度もブラクラを踏むものだから、その都度私が対処せねばならなかったり、父親はグロ画像を嗜好する傾向があったので、私は何度も陰惨なグロ画像を見せられてもいた。
 
当時の私と弟はよく父親のお供に連れ出されていた。というより、父親は私たちがいなければ外に出れないのではないかと思えるくらいには私たちに依存していた。ある日はネットで知り合った男性と会うために埼玉県に行ったこともあった。当時は父親に会話を聞き取られるのが嫌で、父親の前で私と弟が会話をするときはいつもかなりの小声だった。ひそひそ話をするように会話をしており、人前ではほぼ無言だった。そういったことを私たちの事情を知らない大人が「ひそひそ話すんだね」というような言葉を発してくるたびに嫌な思いを抱いていた。なぜかというと、その後にそのことを父親に突っ込まれるからだ。他人の言葉にすぐに翻弄され、自分を見失い、癇癪を起こす。それがうちの父親だ。
 
書けば書くほど思い出すもので、いくら書いても書ききれないくらいだ。
 
子供のころの私たち兄弟は、多分、5~6歳のころ(記憶が芽生えたころ)から父親の元を離れるまで、ずっと「これは教育だ」といわんばかりにアダルトビデオを見せられていた。モザイクなんて知ったこっちゃない映像もだ。
 
無限に溢れ出す思い出たちはこのくらいにしよう。私が書きたかったのは、そうした数ある出来事の中で、父親が弟に対して「ボクシングをしろ」という命令をしていたことだった。
一番伝えたいこと
父親は若い頃、ボディービルをやっていたのもあり、多分、体を鍛えることをさせたかったのではないかと思う。だから、弟に対して「ボクシングをしろ」という命令を下していた。理由は不明だが、私にではなく弟に対してだった。父親は、ボクシングをしろ、ジムに通え、などとプレッシャーだけを弟にかけ続けていた。プレッシャーだけをかけ続けることはよくあった。「16になったら働け」だの自分が楽をするためだけに子供を利用するような親だった。
 
そして、ようやく話は戻る。あの「バカバカ!」と叫び続けていた後のことだ。父親は弟を二階に呼んだ。多分、その時も父親は何の脈絡もなくキレながら弟に対して「ボクシングをしろ!」と言ったんだと思う。
 
ここが一番伝えたいことだ。弟はその時、初めて父親に対して「ボクシングはやりたくない」と意見を言ったのだ。
 
「なんだ、反抗するのか!」と言われても、弟は引き下がらずに「やりたくない!」と言い続けた。
 
私はこの時悟った。もうこれですべてがおしまいになる、とそう感じた。弟は物を投げつけられ、泣き、それを守るために母親が二階に行き、母親が父親に対して「やめて!」と言う。しかし、弟は、母親が父親に対して何かを言うほどに父親が荒れることがわかっていたので、母親には「一階にいて」と伝える。
 
私はその時一階にいたが、もうこれはおしまいだと思った。いや、終わりにしなければいけないとそう感じた。だから、その時初めて、警察に連絡をしようと思った。
 
私が「警察に電話する」と言うと母親は少し戸惑っていた様子だったが、「自分が変わらないと何も変わらない」と察した私は震える手で110を押し、震える声で「父親が荒れて大変なんです、家にきてください」と泣きながら言った。住所を伝え、もうすぐパトカーが家の前にやってくるであろうタイミングで、弟を一階に連れ戻し、しばらく窓の外を見つめていた。父親の荒れ狂った怒号を耳にしながら。
 
しかし、ある程度の時間が経ってもパトカーが来る気配がしなかったので、家の前の砂利道に出てみる。そこから少し歩いて遠くを覗きにいくと、どうやらパトカーは家の前の道に入る少し手前あたりで待機しているようだった。
 
「もうこれは行くしかないんだな」と覚悟を決めた私たちは、窓からサンダルひとつで外に出て、警察官のもとへ駆け寄っていった。なぜ家の前に来ないのか警察の人に尋ねると、そのまま家の前に行ってしまうとお父さんが荒れてしまう可能性があるから、と言っていたような気がする。
 
早く逃げないと追いかけられてしまう、と怯える私たちはそこから一旦警察へ行き、母親が警察の人に事情を伝えた。そして、私と弟は児童相談所へ、母親はまた別の施設へと、離れ離れになることになった。
父親の元を離れてから
児童相談所には一ヶ月半いたが信じられないくらい楽しかった。生まれて初めての友達ができた。荒れていた私と弟を優しさで守ってくれた先生たち。かけがえのない日々だった。
 
 
父親の元を離れてから4ヶ月経ったある日、仕事に出ていた母親から電話があり、父親が亡くなったことを伝えられた。てんかんの薬を飲まずにいたことで発作が起きたのが死因だった。
 
千葉の家では父親はいつも二階にいた。父親はいつもいつも大声で一階にいる私たちのことを呼んだ。私と弟はすぐに二階に駆け上がり、要求に応え続けた。
 
あの日、私たちが逃げた後も、いつものように父親は私たちのことを大声で呼んでいただろう。いくら怒鳴っても、いくら叫んでも、いくら名前を呼んでみても、誰一人として二階に上がってこなかっただろう。父親は不審に思って、怒り狂いながら、「なんで呼んでもこないんだ!!」と一階に鬼のような形相で下りてきたことだろう。想像ができる。父親は誰もいないキッチンを見て、どう思ったのだろうか。いったいどんな気持ちを抱えたのだろうか。
 
父親よいつまで私の夢に出てくる気だ? もういい加減出てくるのはやめたらどうなんだ? いい加減反省したらどうだ? と言ったところで父親はもう生きてはいない。私はもう許したよ。すべて。
トラウマはお守り
私は父親の元を逃げてから、毎日のように悪夢を見るようになった。悪夢の内容は、「父親に追いかけられる」というのがメインだった。
 
365日あったら300日は悪夢を見ているという感覚になるくらいには『悪夢と友達』だ。
 
最近になってようやく落ち着いてきたように思うが、それでも全くゼロになったわけではない。つい3日前ぐらいにも見た。
 
私と他5人ぐらいの仲間グループを取りまとめているボス役として父親が出てきた。内容はだいたい忘れてしまったが、ラストのほうではいたたまれなくなるような悲痛な叫び声がこだましていたのを覚えている。
 
私は汗とともに目が覚め、隣で眠っていた彼女に抱きしめてもらった。久々に見た、「怖い悪夢」だった。
 
それでも私は思うのだ。悪夢はそんなに悪いものではないと。悪夢は私に「現実のよさ」を教えてくれることがある。
 
「現実はなんて超平和なんだ!」と。悪夢を見ているにもかかわらず、ちょっと感動しながら起きられる日があるくらいだ。
 
現実のありがたみに気付くということ。過去を振り返ってみて思うのは、私には「不幸」だと思えた日々があったからこそ、今を平和に生きていることを「幸せ」だと感じられるのではないかと。
 
ひとには喜びや悲しみという感情がある。喜びの裏側にはいつだって「喜びのない状態」がある。悲しみがあるからこそ、喜びもある。つまらないと思える瞬間があるからこそ、楽しいと思える瞬間がある。
 
当たり前だと思える日々を「当たり前じゃない日々」を通じて、当たり前は当たり前ではなかったのだと気付ける。
 
過去のトラウマがフラッシュバックするとき、ああ私はいま充分に安穏と生きられているのだな、と思う。
 
父親の幻影を夢に見ること、過去のトラウマを思い出すこと、それらは私にとって「今の豊かさを知るため」の『お守り』みたいなものだ。
 
日々に鬱屈してしまうとき、私は、過去の困難を思い出すことで前向きになれることがある。
 
「ああ、今の日々も悪くないな」と。