みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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まっすぐ生きていたい。

「生死」には二種類があると思う。ひとつめは生命の生死、ふたつめは心の生死。今日は心の生死について語りたいなと思った。
生きているものに生かされている。
昨日の夜、眠る前にふと「生きているものに生かされている」という言葉が脳内に舞い降りてきた。自分は眠りに落ちそうなときや、朝目覚めた直後によく自分の心の声(?)なるものが聞こえてくることがある。昨夜は布団にくるまりながら、ぼんやりと「自分はなんで生きているんだろう」とか考えていた。別に悲観的になっている訳ではなく、ただいつものように考え事をしていたら、自分は「生きているものに生かされているんだよなあ」と思った。この言葉と共に自分は夢の中へ落ちていった。
 
今朝起きてから、今日一日ずっとその言葉を忘れずに覚えていた。自分は生きている。自分は自分の力だけで生きている訳じゃない。周りに生かしてくれている人がいるから、自分は生きている。当たり前のことかもしれない。ただ、自分は「死んでいるものには生かされていない」と思う。
 
「死んでいるもの」とは、心が死んでいる状態のことを指している。世間的に言えば、人のステータスになるのは「肩書き」や「いかにお金を持っているか」や「見た目」などだ。そうした自分そのものではなく、自分の外側にくっついているもので人は人を評価する。何かを否定したい訳ではない。ただ、自分自身の見栄えを気にするばかり、心をおろそかにしている人は多いのではないかと思った。
 
嫌なことを嫌々やって自分の心を犠牲にする人は多いと思う。自分の心を犠牲にするほどに人は閉じていく。心を殺すほどに文字通り心は死ぬ。人の生き方にああだここだ言いたくはない。でも、自分の心が開くほうへ舵を切っても神様は罰を与えたりしないと思う。
生きて、花を咲かせて。
私は、心が生きている人に生かされている。自分は昔、死にたいと思ってばかりいた時期があった。年齢的には10代後半ごろが特にひどかった。「何かしなくちゃいけない」とか、そういった焦りから自分を責めてばかりいて、次第には鬱のような症状に陥っていった。
 
私は義務教育を受けておらず、代わりに父親から虐待を受けて育った。たしかに当時は辛かったが、いま振り返ってみると、父親から逃げ、本当は自由になったはずの10代後半の頃のほうがよっぽど辛かった。多分、自分を責めに責めていたからだと思う。他人から罰せられるよりも、自分が自分を罰している状態のほうが救いがない。暴力を振るわれていた当時は「死ね」と言われても一切死ぬつもりはなかった。いざ、死ねと言われる日々から脱してみたら、今度は世間の声が聞こえてきた。何もしないで生きている人間には世間は厳しい。私にとっては死ねと言われることよりも、社会的プレッシャーからくる罪悪感や焦燥感のほうが重たかった。過去の中で最も死の淵に近かったのは、紛れもなく18歳ごろだった。
 
自分には価値がない、だから死んでしまいたいと思うこと以上に自分を痛めつけるものはない。もし誰か苦しんでいる人がこの文章を読んでくれているなら、私は「自分を責めないでほしい」ということを一番に伝えたいと思う。あなたには生きている価値がある。
 
もっと生きて、花を咲かせてほしいと思う。目に見えない社会はたしかに梅の花に向かって、桜の花を咲かせ!と言ってくる。梅は桜になる必要はない。梅は梅の花をいっぱいに咲かせればいい。
人とつながっているという感覚が心を生かしている。
私は、死にたいと思っていた時期をくぐり抜け、どうして今を悩みも不安も後悔もなく生きていられるのだろうか。多分、苦しんでいた時期には孤独があった。誰ともつながっていないという感覚が私を孤立させていた。
 
今は違う。私は家族、恋人、友達はもちろんネット上でも誰かとつながっているという感覚を得られることができた。それは孤独にはない安心感だった。
 
サン・テグジュペリの『人間の土地』という本にこういう一節がある。ギヨメという登場人物が雪山で遭難していたときの回想だ。
 
<雪の中では自己保存の本能がまったく失われてしまう。二日三日四日と歩き続けていると、人はただもう睡眠だけしか望まなくなる。ぼくも眠りたかった。だがぼくは、自分に言い聞かせた、ぼくの妻がもし、ぼくがまだ生きているものだと思っているとしたら、必ず、ぼくが歩いていると信じているに違いない。ぼくの僚友たちも、ぼくが歩いていると信じている。みんながぼくを信頼していてくれるのだ。それなのに歩いていなかったりしたら、ぼくは意気地なしだということになる>
 
私にもなんとなくわかる。今は死にたいとは思わなくなった。なぜだろうか、多分、人とのつながりがあるからだと思う。仮に私が死のうと考えたとき、今まで出会った人たちのことが頭に浮かぶだろう。そして、私が死んだ後で、私と関わった人たちはどう思うだろうか。私は私の好きな人たちを裏切りたくはない。
心を生かせ。
私は誰かを救おうとは思っていない。ただ、心を死なさずに生きているというだけで、見ず知らずの人だって救っているという事実があるんだ。
 
世間一般のレールというものが存在するとすれば、私はまず間違いなく大きく外れている。生まれた瞬間から、道を踏み外している。私は世間的に評価されるステータスを持っていない。それは例えば、学歴であったり、職歴であったりする。私にはそれがないが、今を病まずに生きている。道を踏み外しているということが妨げになっているとは思わない。むしろ、レールから外れて生きてきたという事実が私を支えている。
 
この世界には二種類の人間がいる。「心が生きている人」と「心が死んでいる人」だ。どんなに他人から評価されるような職業に就いていても、どんなにお金持ちだろうと、心が死んでいれば周囲の人をも殺すだろう。
 
逆に何も失うものがないような人間でも、心が生きていれば、その存在だけで誰かを救うことがある。何にも持っていなくても自分を肯定して生きている人の存在に私はどれだけ救われたか。自分を肯定している人は他人をも肯定する。
 
私が私より若い人に贈る言葉があるとすれば、それは「心を生かせ」だ。世間的な評価に惑わされるのではなく、ただ、自分の体が勝手に動くほうへ、自分が良いと思ったほうへ、まっすぐに突き進んでいってほしいと思う。
 
私自身、「生産」や「効率」という言葉とは無縁の日々を送っている。ただ好きなように寝て、好きなように食べて、好きなように友達や恋人と過ごしたりしている。そんなような暮らしをする私はこうして文章を書いたりもする。それを見てくれた人とのやりとりの中で、「あなたの言葉で私は生かされました」という御言葉を頂戴したことがある。私は、自分を生きているだけで私の存在が誰かの役に立つこともあるんだなあと感慨深くなった。
まっすぐ生きていたい。
何をしていてもいいし、何をしなくてもいいと思う。ただ、私は「心を咲かせてほしい」と思う。自分のど真ん中にある生命の種を育ててほしいと思う。
 
まっすぐ育つ限り、人は人の心の花を咲かす。本当に「生きているだけ」で、その人の存在が誰かの役に立つ。誰からけなされようとも、まっすぐ生きようとする限り、あなたの存在はより素晴らしいものであり続ける。
 
私にとって本当に大切なこととは、「自分を生きること」だ。頑張ることが、自分を殺すことになるのなら、私は頑張ろうとは思わない。頑張らなくてもいいから、自分を生きていたいと思う。死んでもいいから、私は私を生きることを諦めたくはない。
 
まっすぐ生きてもいいんだ。私がまっすぐ生きようとする限り、私はあなたを生かす。あなたがまっすぐ生きようとする限り、私はあなたに生かされる。
 
生きよう、まっすぐ。どこまでもまっすぐ。空を突き破るぐらいに。