みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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感情は一時のものである。

私と弟が児童相談所にいたとき、兄弟喧嘩をしたことがあった。私が15歳で弟が13歳。文句のぶつけ合い、それに多少の取っ組み合いはしたかもしれない。私と弟にとっては兄弟喧嘩は日常茶飯事だったから、その日も普通に喧嘩して、それが終われば仲直りっていう感じだった。
 
その日の翌日、私はちょっと衝撃を受けることになった。同じ児相にいた中学一年生の男の子に「もう大丈夫なの?」と気遣われたのだ。私は最初、意図を理解するのに少し戸惑ったが、その子からしてみれば、前日には言い争っていたのに今日は平然としていることが理解できなかったんだと思う。
 
私的には弟との喧嘩はとっくに終わっており、なんならもう喧嘩していたことなんて忘れているぐらいだ。それなのに見る人からしてみれば、まだ「ケンカ継続中」。ケンカは言い争い(殴り合い)が終わったと同時に試合終了(仲直り)というのが私と弟にとっては当たり前だった。翌日までケンカが続くことなんて子供のころの自分たちには到底あり得ないことだったから、この出来事は今でも印象に残っている。
 
すぐに仲直りができる関係は本当に健全だと思う。10代のころまではその瞬間の自分の内側にある熱(本音や怒りの感情)を相手に対してぶつけることは何もおかしいことではなかった。
 
いつからだろうか、多分、20歳を超え始めたころからだろうか。弟とケンカすることは全くと言っていいほどなくなった。兄弟喧嘩でなくても、ある程度、大人になってくると人に対する鋭い言動は慎むようになってくる。ケンカ的なことをすることは正直意味がないし、口論などをすることによってのリスク(関係の修復にかかる時間や心労)を思えば、ケンカは避けたほうがどう考えたっていい。
 
と、そういうことを頭で考えることができてしまうというのが大人になってしまった証拠だ。頭でリスクヘッジを考えて、本当の思いは胸の内に隠す。これが人間関係において当たり前になってしまっていることに気付かない。
 
多分、「大人である」ということは「無駄を省く」と同じだ。無駄を省くほど窮屈になる。大人が不自由を感じるのは、無駄を省いてしまっているからだと思う。もっと無駄しようよ、と思う。
 
個人的には、恋人とちょっと怒りにまかせて本音を言い合ったりすることがあると、その瞬間はつらくても、後から振り返ったときに「あれは清々しかったな」と思える。
 
私はそういう本音を言い合えるような関係性が好きだ。相手に嫌われたくないがために自分の言いたいことを我慢していたら、真の関係性は築けないと思う。
 
自分の本当は隠しておきたい部分を包み隠さずに相手に打ち明けられること。お互いがお互いの弱い部分を受け入れ合って初めて「深い関係」になれるんだと思う。
 
何を言ってしまったとしても、そこに信頼関係があれば、最終的には許し合うことができる。どんなに酷いことを相手に言ってしまったとしても、水に流すのに時間がかからない関係性に私は絆の深さを見る。
 
やっぱり、言いたいことを我慢せずに本音を伝えていくことが関係性を深めていくと思う。真に深い関係に到達すると、すべてのやりとりがナチュラルになる。
感情は一時のものである。
「感情は一時のものである」と言いたい。私の偏見かもしれないが聞いてほしい。人は怒りの感情を抑える傾向にある。これは自然なことだ。ゆえに、稀に怒りの感情が表に出てしまったとき、人はそこから出た言葉を「本性」と見なす傾向がある。
 
怒りは抑えていた感情の表れだと思う。誰だって怒りは抱える。不健全なのは怒りを内に溜め込むことだ。「この人とは深い関係性を築きたい」と思う人がいるならば、多少は怒りが混じっても本音を伝えてみるべしと思う。
 
たとえ、その瞬間に怒りが二人を支配してしまっても大丈夫だ。どの感情もいずれは去る。地球が回り続けるように、太陽がまた昇るように、止まない雨はないように、すべては流れゆく。
 
感情とは一時のものだ。怒りの感情がずっとそこに留まり続けることはない。それならば、感情に支配されるのではなく、感情を流していこう。感情に意味はない。ひとつの感情に執着することなく、ただ、たんたんと生きていればいいのだ。
 
その先にさっさと忘れていく子供のころのような朗らかな自分がいるはずだ。