みっつ通信

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三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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私の役割、それは「死ににいくこと」。

今年の春は5回も花見をしてしまいました。4月は「自分を楽しませる!」を合言葉にどんどん行動していこうと思っていましたが、やっぱり「決める」という行為には力があるのか、自分でも驚くほどにアクティブになっています。
 
ちなみに明日は神奈川県の大井町というところで桜の花摘みを手伝わせていただくことになりました。思えば、過去を振り返ると春頃はとても活発的になる傾向が私自身にはあります(ただの偶然かもしれない)。
 
あんまり勇気がなくて各種SNSでは告知的なことはできませんが、ここで陰ながらつぶやかせていただきますと、4月中は自分をフリー素材として誰でも私のことをこき使ってくださいという名目で自分をオープンにするのもありかなと思っています。なので、もし三森正道にご用がある方がいましたら、私に何かしらの方法でご連絡くだされば、懐事情が許す限り、どこでも「フリー奉仕」の姿勢を忘れずに飛び出していきます。
 
連絡先:masamichimitsumori@gmail.com

自分をオープンにするとは。

私は、自分をオープンにするのが好きなのかもしれません。初対面の方に「お父様がお亡くなりになったときの心境はどうでしたか」というご質問をされたときなど、案外嬉々として「ガッツポーズしましたね!」などと言えてしまいます。
 
果たして「自分をオープンにする」とはどういうことなのか私もまだまだ若輩者なので、これといった答えは持ち合わせておりませんが、自分にとってのオープンとは「自分自身を包み隠さないこと」なのかなと思っています。
 
これは、もしかしたら自分の軸と言えるものになるかもしれませんが、私は「こんな自分でも生きている」ということを伝えたいがために生きているのかもしれません。うまいこと言えないですが、世間一般的(?)に言わせれば、学歴もなく職歴もなくお金もなく何にもない状態な私なわけです。そんな私でもそこそこ楽しんで生きている。だからこそ、それを知ってもらうには自分をオープンにする必要がある。
 
「自分を包み隠さない」とは、私にとって、過去にはこんなこともありました、とか、今はこんな感じです、とか、そういうことを全部堂々と言うことです。間違っても秘密を打ち明けるようには言いたくない。わたし可哀想な環境で育ったんです、とか言いたくない。学歴がないならないで、胸を張って生きる。何にも気にしないし卑下しない。そういった姿勢で生きることが、きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、「同じ境遇のひと」を救うことになると思いたい。決して、誰かを救うためにやっているわけではありませんが、ただ結果として何にもないひとが元気に生きている姿を見て、「ああ、あいつが生きているなら自分も大丈夫だ」と思ってもらいたい。
 
 
これは余談になるかもしれませんが、あえて自分がブログを書いたり、Twitterなどで自分の考えを発信することは、あらかじめ「自己紹介」を済ませておきたいからだと思います。自分の考えや育った環境などをブログなどに書いておけば、それを見てくれた方が自分のことを知ってくれる。最近では、初対面の方と会うと、「ブログ読んでます」と言われることが多くなって、私は本当に嬉しく思います。見てくれている方がいるというだけで、自分はもっと表現をしていきたいなと思える。私が今こうして文章を綴られるのも、これを読んでくださっている方のおかげでもあります。
 
たしかに私は「みっつ」という名ばかりが先行しているのもあって、その虚像にダメージを負わされることはよくありました。でも、その虚像は私自身が創り出している面もある。インターネット上で自分のことを自分の言葉で話すということは虚像を背負うということでもあると思います。「『あの』みっつさん」と言って、「あの」の部分を強調されることもありますが、その、"あの"私は私のことを代弁してくれているので、いつまでも私自身の一部であり続けることを祈っております。というわけで、この文章を書いているこの私も虚像になり得ますが、それはもう副作用としか言い様がない。でも、私はこういう人間だよ、ということは少なからず伝えることができていると思います。
 
 
この時点でだいぶ話が長くなってしまいましたが、今日はたくさん文章を書かせてください。普段の私は、鬱っぽくなったり、はたまた元気に活動的な状態になるということを交互に繰り返していますが、どうやら今の私は元気な状態のようで、最近は臆さずに自分を表現できているような気がします。鬱っぽいときの私は、ブログを書いても、Twitterでつぶやいても、その圧倒的な自意識によりすぐ消すということを何度も繰り返したりしていますが、最近の私は「俺は俺だしどうでもいいな」とある種、開き直ることに成功しております。
 

 

人生は自分との闘いだ!

役割とは何か。

というわけで、突然ですが、昨日蔦屋書店で本を読んでいたんですね。岡本太郎関連の書籍を読み漁っていたんですが、岡本太郎の便宜上パートナーと呼ばせていただきますが、岡本敏子さんの「岡本太郎の友情」という本が良かったんです。主に「岡本太郎 × 誰々さん」という感じで、岡本太郎とつながりのある方とのエピソードが敏子さん視点で描かれていたんですが、岡本太郎の母親である岡本かの子さんとのエピソードが胸にきました。その中で「おっ」と印象に残ったのが、「母親の役割」についてのくだりでした。
 
とりわけ女性は、家族の中に入ると女ではなくなってしまう。夫の前でも、子供の前でも「お母さん」だ。
 
ある外国人が、電車に乗って来た老婆が、つれの子供づれの女性に「お母さん、こっちがあいてるよ」と呼びかけて坐らせようとしたのを見て、実に奇異な感じがしたと言っていた。おそらくその人の娘か、お嫁さんなのだろうが、家族の中では、母であるそのお婆さんが呼びかける時でさえ、「お母さん」であって、誰々さんという女性ではない。
 
日本人なら誰もそれを奇異と感じなくなってしまっている。そして女性は「お母さん」という役割、ポジションの中に、甘んじてか心ならずも居坐って、女であることを放棄してしまう。まだ十分若いしなやかな身体も持っているし、恋をしたい情感もうずいているのに。世間からも誰々君のお母さん、誰々さんの奥さんとしてしか扱われない。ときめきを禁じられ、封印されて、いつの間にか女でなくなってゆく。

 

最近の私は「家族とは何か」とか、「彼氏・彼女とは何か」とかよく考えるウィークだったわけですね。だから、この母親の役割についてはなんだか「ほほー!」と思わされて、特に「女性であることを捨て母であろうとするひと」にちょっと読んでもらいたいなと思ったわけです。
 
私自身もつい先日、彼女と話し合いをしまして、「彼氏・彼女」という概念を取っ払おうという話をしたばかりでした。なので今は事実上のフリーです。もう彼女は彼女じゃないわけです。私にとって大切な人であることに変わりはありませんし、彼女ではなくなったと言っても、関係性は以前のまま継続です。ですが、もうお互いが誰と寝たとしても、もうそれは「浮気」じゃありません。
 
彼氏彼女の関係性ではなくなるということはそういうことです。不思議なのが、私も彼女(便宜上彼女と呼ばせていただく)も、お互いを手放した瞬間から、不思議と「嫉妬や嫉妬による怒り」などが消滅し、相手を純粋に尊重できるような感覚を得ました。お互いがお互いに対して、「ああ相手には相手の人生があるんだな」とポジティブに捉え直すことができ、一人の人として見る意識が強まりました。
 
概念というものは自分の知らないところでかなり力が働いているのか、今回で言うところの「彼氏・彼女」という概念は捨ててみて初めて、その効力がどれだけ広範囲に及んでいたのかが分かりました。多分、知らず知らずの間に彼女のことを「自分の物」として認識していたのでしょう。
 
思っていた以上に相手を所有するという感覚は怖い。多分、相手にいつの間にか寄りかかっちゃっているということに自分では気付けないというところが怖いのでしょうか。万が一、相手に全体重で寄りかかっていたら、相手を失った時にその反動がいっぺんに来る。今回で言えば、彼氏彼女の関係性を捨てることでお互いがフリーになったわけですが、感覚的にも文字通りフリーになることができました。
 
こうした概念を捨てるという行為の良さは、関係に傷がつかないままある種の別れを体験できるということではないかと思います。喧嘩別れをして初めて相手がどれだけ自分にとって大切だったかということに気付くより、人として付き合っている最中に相手がどれだけ自分にとって大切な人であるかを認識したいじゃないですか。
 
「家族」や「彼氏・彼女」という概念によって幸せが約束されるならそれはそれでいいと思いますが、それで逆に不幸になってはあまり意味がないように思います。岡本太郎も「財産や知識は積み減らすべきだと思う」と言っていますが、人や物を自分のものにしていくという行程が不幸を呼ぶ。実際はすべてを手放していくことが幸せや自由への近道なのではないか、と思います。
 
執着せずに、離れていくなら離れていけ、それでいい。自分にとって必要なものは自分のそばにあり続けるし、そうでないものは自分の前から姿を消していく。自分の体は自分にとっての「必要・不必要」を知っている。
 
役割なんてあってもなくてもいい。役割に固執するから不自由が巻き起こるんじゃないでしょうか。

死ににいくことには痛みがある。

自分が本当に大切だと思っていたものを手放すとき、心に痛みが走ると思いますが、それは、自分の心にくっついていたゴミを取り払うからこそ発生する痛みだと思っています。本当に意味のある行動には、必ず何かしらの痛みがあるような気がしています。痛みを持った体験、それこそを「(古い自分が死ぬという意味で)死ぬ」と言うのではないでしょうか。
 
痛かったから無駄だったなんてことはなく、痛かったからこそ意味があった。それが他人にとっては無意味であるような行動だったとしても、自分にとっては意味があった、全部それでいい。他人がどう思うかより、自分がどう思うか。自分の中にはすべてがあるように思います。
 

 

日々生まれ変わるということ。人間関係の中での失望とか失恋とか、全部、「やった(会った)」からこそ味わえた悲劇。それは、「幸福のひとつの終わり方」だと思います。
 
というわけで書きたいことがいっぱい溜まっていたようで、いろいろと書いてしまいましたが、私みたいな人間(学歴もなく職歴もなくお金もなくだからといって何をするわけでもなく)でも生きておりますので、みんな大丈夫ですね! では、死にそうなときほど死ににいきましょう!!!
 
さようなら!!!