みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

怒りについて。

思えば、行動を起こすこと自体に満足はしてきたけれど、これは素晴らしい出会いだと思える人との出会いは限りなく数少なかった。多分、よほど自分との相性がいい人との出会いでない限り、どうコミュニケーションにおけるテクニックを駆使したところで疲労するだけなんだろう。
 
最近はいろいろ思うことがある。少しくらいブログにまとめれば多少は元気が出るのかなと思い、メモ的に書いてみようかと思う。

「いい人」とは、「いい人に出会えていない人」のことである。

よくあの人はいい人だ、という表現を耳にするし、自分自身も「いい人だ」という言葉は使う。でも、いい人ってなんだろう。大した魅力を感じない人を指して、いい人という言葉を使って、その人のことをカバーしようとしているだけな気がする。多分、「いい人」と言われる人は、「(それこそ)いい人に出会えていない人」のことを言うのだろう。

自分を出すとは、半端ないくらいの丁寧さを要する。

自分を出すとはなんだろうか。自分を出すとは、決して怒りや負の感情をぶちまけることではない。怒りなどこの世には不必要だと言っても差し支えないぐらいの感情だ。思うに、「穏やかでいられること」には最高の価値がある。多分、自分を出すとは、いかに「冷静に物を言えるか」なのではないか。穏やかであろうと努め、冷静さを保ちながら、自分が思ったことを優しく言う。自分を出すとは、たいへんに難しいことだと思う。でも、私は諦めずに、自分を出していきたいと思っている。

他人の顔色を伺っていても停滞するだけだ。

大切なのは、人のご機嫌を取ることではなく、自分自身のご機嫌を取っていくことだ。他人の顔色を伺ってまで自分のやりたいことや言いたいことを押し殺すくらいなら、何にもしないほうがマシだ。根本的に「ひとの気持ちを決めつけないこと」。「嫌われたと思い込まないこと」。傷ついてもいいという覚悟を持って、人と接していくこと。傷ついたら傷ついたで終わりにする。一回一回、終了のホイッスルを吹くことが、新たなスタートを生む。

前提として、「人のことはわからない」。

人のことはわからない。人の気持ちをいくら想像したところで、それは、自分自身の気持ちを膨らませているだけだ。相手だって、自分自身の気持ちに戸惑っていたりするものだ。自分自身だって、ほんとうは自分の気持ちがいったいどうして、「このように」なっているのかわからない。すべてに対して言えるのは、「何にもわからない」ということだ。

正義感を押し付けない。

正義感を押し付けるために何が必要になるか。それは、往々にして「怒り」だったりする。果たして「怒り」が人を動かすことがあるのだろうか。人が怒っている姿を見るのは悲しい。自分自身に暴力を振るっているようにさえ見えるくらいに。他人を大切に扱えない人は、自分自身をぞんざいに扱っている。

怒りについて。

怒りの感情は、まず「やり過ごすこと」だと思う。怒るということは毒を飲むようなもので、自分の中に毒を持ちたいわけでもなければ、怒ることには何の意味もない。「怒り(イライラ)」は、多分、他人に期待している証拠だ。怒らずにいられること【自分を馬鹿にしないこと】には、最高の価値がある。怒りは、「変化を望んでいる状態」でもある。変化を望む対象が“他“であれば、怒りは継続されるが、“自“であれば、何かを変えることができる。自分はどうしたいのか。まずはそこからだ。

我慢について。

心の濁りは我慢をしている証拠だ。我慢は美徳も何もない。我慢は、人の心を不透明にする。我慢は、内側に負の感情を溜め込む。負の感情が溜まれば、人は病気になる。基本的に何事についても言えることだと思うけれど、とにかく「思ったことを正直に言うこと」は人を軽くさせる。

愛するということ。

愛するというのは、相手の好きなところも嫌いなところも全部受け入れるということだと思う。相手の言動が自分の望んだ通りでなければ、相手のことを受け入れられないなんて、あまりに幼児的だ。大人になるということは、誰も自分の思い通りになんてならないんだと気付くことだ。すべてが自分の思い通りになったら、つまらなすぎる。愛するということは、自分が好きだと思った人間のことを少しずつ知っていき、その上で見えてきた相手の嫌いな部分も受け入れていくことだ。「愛する」とは簡単に口で言えても、人を愛するということは本当に難しい。それでも、私は人を愛していきたいと思う。

「信頼」と「待つこと」は切っても切れない関係にある。

相手に言葉を紡ぐ時間を与えること。相手に思考する時間を与えること。人の話を遮ることが相手に対しての冒涜に近いように、「待てない」ことは相手を蔑んでいるようなものだ。まずは「待つ」ことだと思う。「待つ」という行為は、相手を信頼している証になる。