みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

撹拌された脳内。

近頃、脳内が撹拌されている。多くの言葉が頭の中を浮かんでは消え、浮かんでは消え。今は家のノートパソコンの前にいる。弟が洗面台の前で髪をタオルで拭いている。
 
「思う」ことが多い人は、親しい人に話を聞いてもらう時間を設けなければダメになってしまうと感じる。今朝も(私にとっての今朝とは時間帯を指しているのではなく起きた直後のことを指す)、あれやこれやと思うことを弟にたくさん聞いてもらった。
 
聞いてもらった、というと語弊があるかもしれない。私が一方的に話をしているわけではなく、私の発言に対して、弟も自分なりの意見を返してくれる。「自分はこう思う」のやりとり。これが会話だろう。
 
友情もそうだ。同調し合うだけの関係は友情とは呼べない。私が思うに友情とは、意見をぶつけ合える関係性のことではないかなと思う。相手を信頼しているからこそ何を言ってもいい、けれど、相手を傷つけるための言葉は使わない。お互いをリスペクトしているからこそ、対等に、時には「それはどうなんでしょう?」と気持ちを伝えられる。
 
 
ここ数日は、思考が撹拌されている。昨日は「楽しみにしていたあの映画を観よう」と思い立って、再生ボタンをクリックしたものはいいものの、全く集中できず、映画の内容と関係ないことを延々と脳内で考え続けた。
 
これでは楽しみが楽しみでなくなってしまう。多分、今はインプットの時期ではないのだ、とそう思うことにした。この頭意識を静めたい。だから、今朝は弟と話をしたり、今も文章を書くことで何とか落ち着こうとする。
 
話すは離す、だなと思うことは多いけれど、話しても離せないことはある。何かに取り憑かれたように思考の働きが強くなる。まるで側溝の水をせき止める板を外してしまったみたいに。
 
 
今この瞬間に感じている本当の気持ちはなんだろう?と少し考えてみたものの、答えは見つからない。ひとつ確かなのは、いま自分の脳内には強めのストレスがかかっているということだ。
 
ストレスがかかる、ということが悪いことだとは思わない。平穏な日々を振り返ってみると、特別、何かを考えていたという時間は少なかった。多分、考え事を自分の意志とは関係なくし続けてしまう状態はストレスがかかるのだろう。(自分の意志で考え事をするときなんてないような気もするけれど)
 
考えるのやめたい、と思ったところで考えることはやめられない。それならとことん考えてみようと舵を切る。人が成長するときは、大抵、ストレスを乗り越えたときだ。ストレスは刺激みたいなもので、たまにはストレスに苛まれるのも必要なんだろうと自分に言い聞かせることにする。