みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

こうあるべき、には、なめんなよ。

おいしいものを食べるとまずそうな顔をしてしまうみっつです。ここ数日は比較的涼しいですね。寝るのが楽です。最近はいろいろと考えることが多いのですが、その中でも特に大切にしたいと思ったことを今日はまとめたいと思います。

人を判断しない。

その人自身を見たいと思う。相手を男として見るのも女として見るのも完全に自由だけど、自分はまずは全ての人を純粋に人として見たいと思う。その人の周りに付いたゴミで人を判断したくない。肩書きやその人の状況は基本的にどうでもいい。その時々によって人は大きく変わると思う。具合が悪かったり。でも、その人自身を見ようとすることを怠らなければ、何も気にならなくなると思う。すべてを知れば、すべてを許せる。きっと、相手のすべてを知ることはできないけれど、相手を今よりも知ろうとすることはできる。

自分を出すとは、好き嫌いをはっきりと示すことである。

心の真ん中には孤独があると思う。自分一人で静かにしていると、自分の中の孤独に触れる。孤独に触れるということは、自分と向き合うということだと思う。自分と向き合い、自分を知るほどに生きづらくなる。何が好きで何が嫌いかすぐにわかってしまうようになるから。でも、それでも自分を出している限りは、どこかで喜びに出会える瞬間がある。自分を出すということは、きっと、好き嫌いをはっきりと示すということだと思う。軽蔑されたくないからと、中途半端な優しさを持ってひとと接するくらいなら、自分をさらけ出して呆れられたほうがずっといい。そのほうが嘘をつかなくてすむ。

自分を曲げないと付き合えない関係はいらない。

弟が言った。自分を曲げないと付き合えない関係はいらないと。超いいねと思った。ひとはきっと花みたいなもので、いつでもまっすぐ伸びることを望んでいる。でも、生きていると自分を曲げないとやっていけないときがある。仕方がないといってしまえば仕方がないけれど、それでも、自分を曲げずに生きようとする姿勢は心の奥にずっとあってもいいと思う。きっと、自分を生きるということは時にひとの言うことに耳を貸さないということだ。言うことを聞かない。そういう反抗期的な心は忘れないでいたいなと思う。

こうあるべき、には、なめんなよ。

一部の心ない人は、その人がどう生きているか、どんな実績を残しているかで人を判断する。自分のことは基本的に棚に上げ、他人にあーだこーだと言っている。そういう人に限って、自分の頭で考えた訳でもない他人からの受け売りの正義を振りかざす。「こうあるべきだ」と言う。が、私からしてみれば、どんなに「こうあるべき」と言われたところで、「そうはなれない」から「こうあってるんです」としか言いようがない。ひとつ言えるのは、あなたがいるから私がいて、私がいるからあなたもいるんですということくらいだ。「こうあるべき論」をふっかけられたときは、開口一番、「なめんなよ」のスタンスでいきたいと思っている。

アンチ的な心意気は常に忘れたくない。

完全に持論だけど、人の反対をいく限りは抜け出せない空間を、自分を生きる限りは抜け出せると思っている。抽象的になってしまうけど、人の反対をいくことは相手を基準に動いているのに対して、自分のままでいることは自分自身が基準になる。自分を生きることはそれだけで大きな価値だと思う。アンチ的に生きるということは、他人に抗うというよりは、自分のままでいようとすることだ。他人に無価値だと思われようと構わない、自分にとっては自分がいちばん価値がある。

流れを許すこと。

多分、今の時代は流れに乗ったほうがいい時代だと思う。流れに逆らうよりも、そのほうがずっと楽に生きられるような気がする。「それもだめ、あれもだめ」と言っている間に時代に取り残されるのがオチだと思う。何が正しいか間違っているかなんて本当は重要じゃない。全部そのままでいい。雑多は雑多のまま許す。自分が流れに乗ることを許せば、思いのほか楽しく生きられると思う。固執しない、執着しない、全部許す。自分はそういう価値観でいたほうが実際にずっと楽だ。