みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

誰かの死を願うとき、自分自身の死をも願っている。

かなり長文になってしまいましたが、昨日今日思ったことあれこれをまとめました。お暇なときにでも読んでいただけたらなと思います。

1.人とコミュニケーションを取れるようにならなくてもいい。

自分は人と会うのがかなり苦手なほうで、よく聞く「内向型・外向型」で言ったら完全に内向型だ。人と会って充電される人は外向型だとすれば、自分は一人でいる時間で充電する内向型タイプだ。そのせいか人と会うと消耗する。が、それでもなぜ人と会うのか。理由は簡単で、気の合う人がいるからだ。気の合う人と一緒にいる時間は、内向型の自分でも充電される。疲れるとしても初対面の人が大勢いる場に顔を出す理由は、「この人最高だな」と思える人と出会うためだ。
 
自分が人と会うのは、「人と上手にコミュニケーションを取れるようになるため」ではなく、「無理をしなくてもコミュニケーションが取れる人と出会うため」だ。無理をしてまで、みんなと仲良くする必要はない。頑張ってまで、人とコミュニケーションを取れるようにならなくてもいい。「この人と一緒にいると自然体の自分出ちゃうな」という人と一緒にいるときが自分にとって最高に楽で、最高に楽しいんだ。

2.ガンジーの言うことが全部正しいとは限らない。

偉大だと言われる人の言葉を読むと、時折、全部鵜呑みにしてしまう自分がいることに気付く。ガンジーが言っていることに違和感を覚えたとしても、ガンジーが言っているんだから、きっと全部正しいんだと思ってしまう自分がいる。でも、それは間違っている。もっと自分の感覚を信じてもいい。誰かの言葉に対して、違和感を覚えたときはその違和感を見逃さない。絶対に正しい人なんていない。誰もが自分なりの意見や価値観を持っている。それなら、もっと自分の感覚を頼りに物事を判断してもいい。その積み重ねが自分という人間の価値観を生み出す。価値観とは、価値を観ると書く。自分はどこに価値を観るか。

3.ヒトラーの言うことが全部間違っているとは限らない。

偉大な人の言葉が全部正しいとは限らないのであれば、愚かだと言われている人たちの言葉を全部間違っていると否定してしまうことは思考停止だ。ヒトラーは言った。「わたしは間違っているが、世間はもっと間違っている」と。この言葉を否定する理由はいくつもあると思うけれど、自分はこの言葉が好きだ。好きに理由はない。好きだから好きだ。世の中には「正論」だけでは裁けないことが多くある。「好き」という感情もその一つだ。理由があるから好きなのではなくて、好きだから好きなんだ。それ以上でも以下でもない。

4.人から社会的地位を奪い取ったら、人格しか残らない。

何かのせいにしてしまうことはある。だから、「〇〇のせい」にすることはいけないことだと言い切りたくはない。できれば、「何かのせいにして生きていくことは自分が辛いからやめたいね」ぐらいにしたい。というわけで、今の社会はルール【常識】で回っている。そのルール【常識】は幾多にも及ぶ。ほとんどの人が常識に従っている社会で(そうしないと生きていけないから)、「誰かのせい」にすることはナンセンスだ。でも、少しくらいは社会のせいにもしてみたい。ので、説明を頑張ってみる。
 
今の社会は【肩書き】が全てだ。生きるためには働かざるを得ないみたいな状況を除いて、人は社会的地位欲しさに働いているところもあるのではないかと睨んでいる。自分はそういう風潮に馴染めないので、しかも天邪鬼だから、何者でもないことに価値を置きたがる。そんな自分からこの社会を見ると、【肩書き的なサムシング】が人を苦しめているのではないかと疑ってしまう。そして、その社会的な立場を象徴する肩書きを人から奪い取ったらどうなるだろう。もはや人格しか残らないと思う。自分はそんな世界を想像してみたら、すごい生き心地がいいなと思えたので、今は全部【肩書き】のせいで問題が多発しているんだということにする。

5.犯罪を犯す人は住所不定無職が多いが、住所不定無職だから犯罪を起こしがち。

ニュース番組を見ていると本当に不幸なニュースが多くて辟易してしまう。だから、今はもうテレビニュースを見ることはめっきり減った。でも、ネットでもそういった情報は簡単に手に入るので、たまに目を通す(動画付きだったりする)。と、犯罪を犯した人の素顔がダイレクトに目に届く。手錠をかけられ、上着みたいなものを頭から被せられ、顔がよく見えないパターンも多い。そして、そんな人たちの職業は【住所不定無職】であることが多い。
 
悲しいかな、私も住所はあれど無職なので、なんだか妙に切ない気持ちになる。こういうので無職のイメージがますます悪くなるんだろうとおセンチな気分になる。ただ、それは犯罪者のことを責めているのではなく、たしかに無職だと世間体が悪くて、犯罪にも手を出してしまうだろうなという心理がわかるからだ。もちろん例外がたくさんあることは強調しておきたいが、犯罪を犯す人が住所不定無職であるのではなくて、住所不定無職だから犯罪を起こしがちだ。
 
働いていないことを理由に自分も自分を責めまくっていた時期が長くあった。数年前、中学生の男の子に「みっつはよく犯罪者にならなかったな」と言われたことがある(親御さんを通して間接的に聞いた)。その言葉を聞いたときは正直めちゃくちゃ感動した。初めて自分の気持ちをわかってもらえたような気になった。犯罪者のことを膿というのは簡単だろう。でも、その膿(犯罪)は社会が作り出しているということはこの胸に留めておきたい。

6. 誰かの死を願うとき、自分自身の死をも願っている。

他人に対して過剰な期待を寄せてしまうことがある。自分の一方的な期待に応えてくれる人なんてそうそういないだろう。そんな、自分勝手な期待を寄せているのにもかかわらず、期待に応えてくれない相手を恨めしく思ってしまうときがある。相手をコントロールしたいのだ。100%これから起こることがわかっていると生きることがつまらなくなる。これから先、何が起こるかわからないからこそ面白い。それなのに相手を支配してしまいたいという欲望が自分を苦しめることがある。相手に期待すること、そしてその期待が裏切られたとき、相手を憎悪してしまうこと、そのようなストレートに言ってしまうと【相手の死を願う気持ち】は自身を腐敗させる。
 
人に対して怒りや憎しみを持つとき、それは一方的に相手に投げかけているようで、実際は言葉や体で表現しない限り相手には届かない。そして、憎悪のほとんどは相手に伝えられることなく、自分の心の中でこだまし続ける。自分自身だけが苦しんでいる状態だ。憎悪の念は、自分の体を猛毒でいっぱいにする。人を恨んでいるはずなのに、いつの間にか対象が自分自身になっている。人に対して「死んでしまえばいいのに」と思っているとき、脳みそは自分と他者を区別することができず、「自分自身の死を願っている状態」になってしまう。人間関係で辛いときは誰かを呪っているときだ。それをすぐやめることはできないが(変化はいつだって遅いものだ)、「人を呪うことは自分のためにならない」と気付くことで少しは冷静になれるはずだ。実際に自分はそうだった。自分が嫌だなと思う人や不機嫌な人からは基本的に距離を取ることを勧めたい。

7.被害者になる懸念よりも、加害者になる懸念を。

近所で事件が起きたら、怖いと思うのは自然だ。ただ、何事もそうだと思うけれど、自分が被害者になる可能性を考慮するのはイージーだ。別に自分が被害者にならないように気をつけることは構わない。けれど、自分が【加害者になる可能性】を少しでも考慮したことがあっただろうか。自分は前にこのような記事を書いたことがある。自分は絶対に加害者にはならないと信じ込んでいたとしても、ふいに何かの拍子に人を傷つけ、殺めてしまうこともあるかもしれない。それが事故であれ、事件であれ。
 
今一度、自分自身が【加害者になる可能性】を考えることがあってもいい。何故か。被害者意識ばかりを持っていると、【正論で人を殺しがち】だからだ。正論は時に暴力にもなり得る。正論と常識は似ていて、自分がそれによって傷ついたとしても抗えない力がある。自分は被害を受けるに違いないと思い込むことは、時に、自分自身が加害者にもなり得るのだということを忘れさせる。危険だ。これは自分に対する戒めでもある。言葉を扱うときは丁寧さを心がけたい。

8.何のための制度で、何のための社会か。

人のために社会が存在しているはずなのに、それがいつしか逆転をしてしまい、社会のために人が存在している現象を見る。社会は人を助けるためにあるのではないか。それにもかかわらず、いつの間にかに「社会のためにこの身を捧げ奉仕しなければならない」という強迫観念に圧迫されることがある。
 
例えば、学校での勉強はどうだろう。この社会で不自由なく生きていくために学校教育があるのではないか。それがいつしか、「学校で勉強をすること自体が善」だと見なされている風潮を垣間見る。不思議だ。自身が学校での教育を必要としていないのであれば、もっと、自由に振る舞ってもいいはずだ。学校に行く気分でないのなら行かない、そうした選択肢があってもいいはずだ。それなのに「勉強すること自体が善」であると、どうしてもその選択肢を取りにくくなる。それで一体誰が得をするのだというのだろう。
 
はっきりいって勉強は趣味だ。勉学に励みたい人が好きなだけ励めばよく、そのために大学がある。それがどうしたことだろう、勉強すること、仕事すること、それ自体が善だと見なされる。すると、勉強をしないことが悪だと判断されたり、体裁的に仕事をしばらく休みたくても休めないような環境が続くことになる。人のための制度であるはずが、その制度によって人が苦しむ。この現象はいったい何なんだろうか。社会に生かされているはずが、その社会に与えられた生を恨むようになる。生きること自体が苦になる。自分はそれを考える行程で、社会(制度)のために自分があるのではなく、自分のために社会(制度)があると思えたことでずいぶん気が楽になった。その時に初めて、社会(制度)が自分のために機能してくれたように思えた。

9.認められたい時点で人生の方向を間違っている。

頑張って行動しているとき、見返りを求めてしまうことがある。それは、認められたいという欲求であったり、褒められたい願望であったり、感謝されたいといった礼の要求であったり。しかし、最も純粋な行動は「それを行った時点で満たされる行動」である。
 
例えば、ある人に10万円を渡したいから渡す。それで終わり【あげるという行為で満たされる】であれば純粋だ。が、それ以上を望んだ瞬間から濁る。10万円を渡したからにはもっと動いてほしいといった相手に対する見返りの切望。「そうしたいからそうした」にもかかわらず、見返りを求めてしまうと満たされない状態が続くことになる。挙句、相手に対して行動を要求するようになれば、それは自分のことしか考えていない証拠とも言えるだろう。
 
純粋な行動は「やった時点で満たされる」。自ら行動をするということはそれなりに自分の意志が働いているはずだ。にもかかわらず、行動を起こしている中で「認められたい」と思ってしまうということは、他人の人生を生きているということだ。承認を求めている時点で、だいたい人生の方向性を間違っている。「認められたい」と思ったときはきっと去り際だ。自分は承認を欲してしまうようになったら、なるべくその行動について考え直すことを決めている。