みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

俺の価値観は俺が決める。

とある漫画を読んでいたら、「はたらくって、はたをらくにさせることなんだよ。」という言葉に出くわして、「おお、いいな」と思いました。傍を楽にさせる。「お金を稼ぐことだけが働くことではない」。「周囲を楽にさせることが働くっていうことなんだよ」と。ちょっとそれを聞いたときに俺も存外働けていない訳ではないかもと思いました。都合のいい解釈でしょうか。あと仕事つながりで思ったのは、「仕事と労働はまったくの別物」だということです。多分、仕事とは『自分のために生きること』であったり、それこそ周囲を楽にさせることである。対して、労働とは『お金を稼ぐこと』であり、人によっては仕事をするために労働をする。ああ、労働は苦手だけど、仕事はしたい。という訳で、いろいろと思うことがたまってきているみっつです。今日も最近思うことあれこれ的なことが書けたらいいなと思っております。

情報摂りすぎ。

最近は生気を吸い取られるのであまりSNSを見ていない。自分の話になるけれども、数年前までは所謂"意識が高い"記事を読み漁っていた。成功者の体験談とか、TED動画とか、社会問題とか。それを読めば(観れば)自分も同じようになれる(語り手になれる)と思っていたのかもしれない。が、しかし、今では何一つ覚えていない。当時はそれらを読むことが学びになると思っていた。もしかしたら、今の自分をほんの少しくらいは形成しているのかもしれないが、本当に何一つ覚えていない。ここ数年はそういった意識高めの記事からは自然と距離が離れていたのだけど、つい数ヶ月ぐらい前にちょっとしたきっかけで新進気鋭というのだろうか、そういう最近キテる人たちのTwitterなどをチェックしていた。頭がいい人のつぶやきやインタビュー記事を読むのは楽しい。が、どこかで疲れる自分がいた。
 
多くの情報はストレスになる。思えば、才能・能力のある人の文章を読んだところで自分がその人になれる訳ではない(そもそもでなりたいとは思っていないが)。意識が高い人というのは、要はビジョンを持って実践している人のことを言うのだろう。けれども、そういった人たちの動向を追うことで満足している自分という人間はただの傍観者である。しかも意識が高い人の情報に触れることで「自分はこの人の言っていることが理解できるんだ、俺も頭がいいな」なんて思い始める。それはつまり、何にもしていない自分に満足しちゃうということだ。『意識が高い人・記事』に触れることで、『意識が高い系』になってしまう。意識高い系というのはつまり自分の能力を過大評価するということだと思う。実際は何にも生み出していないのにもかかわらず、自分には能力や才能があると思い込む。それが結果として自分の目標を近付けることになったら良いのだろうけど、自分の場合、目標も何も持っていないので、意識の高い情報をインプットすることが自分という人間を好転させるとも思えない。それどころかむしろ読んで満足という意味では停滞してしまう。
 
というか、疲れている自分がいる。情報摂りすぎだよなと思う。お腹いっぱいだ。英語を学習するためには勉学に励まなければ習得できないように、楽な学びなんてないと思う。その点、情報というものは情報それ自体を得ることが目的なのであって、学びという意味ではさほど効果は見込めない。というか効果なしだと思う。暇つぶしなんだと思う。少なくとも今の自分にとってのスタート地点は、「自分には能力も才能もない」ということを認めることからだと思っている。なので、しばらくは読んでいて心地の良い情報(ガジェット系とか)だけをスマートに斜め読みしていこう。

健全とは淋しいもの。

中原中也の『秋の夜に』という詩がある。その詩の最後の行に、「健全とははや出來たての銅鑼、なんとも淋しい秋の夜です。」という一節が心に残った。全文を引用したいと思う。
 
秋の夜に、
僕は僕が破裂する夢を見て目が醒めた。
 
人類の背後には、はや暗雲が密集している
多くの人はまだそのことに気が付かぬ
 
気が付いた所で、格別別様のことが出来だすわけではないのだが、
気が付かれたら、諸君ももっと病的になられるであろう。
 
デカダン、サンボリスム、キュビスム、未来派、
表現派、ダダイスム、スュルレアリスム、共同製作……
 
世界は、呻き、躊躇し、萎み、
牛肉のような色をしている。
 
然るに、今病的である者こそは、
現実を知っているように私には思える。
 
健全とははや出来たての銅鑼、
なんとも淋しい秋の夜です。
 
健全であるということは、世間一般の常識に従うということだと思う。その常識から外れることは、異常なことであると見なされる。異常であると見なされた人は、病的だとされ、精神的に病むような状況に追い込まれる。なんとも淋しい。違和感を違和感のまま持つことが許されない。本来、常識とは作られたものであり、幻想だ。その幻想を現実だと思い込むことで社会は回っている。しかし、幻想は現実ではない。そのことが現実だ。きっと、私は異常者側なんだろう。狂気を持っていない人間などいない気もするけれども。

苦労は売ってでもするな。

「苦労は買ってでもしろ」という人がいる。私は「嫌です」と思う。私は、「苦労は売ってでもするな」と言いたい。生きていれば嫌でも苦労してしまうことがある。物質的に豊かでも、鬱になることはある。鬱は苦労だ。それでも苦労しろというのか。中途半端な苦労をしたところで、「自分は苦労をしたと思いたいだけの人間」に成り下がったら元も子もない。苦労というものは、苦労をせざるを得ない状況を乗り越え、それをバネにして生きている人間だけが価値にできる。安易に苦労話をするような人間、苦労は買ってでもしろと言ってしまうような人間になるくらいなら、私は、苦労は売ってでもするなと言いたい。

俺の価値観は俺が決める。

最近は、「俺の価値観は俺が決める」という言葉に自分自身が勇気付けられている。これを上手に言語化できたらどれだけ嬉しいだろうかと思うけれど、あまり自信がない。でもやってみる。
 
私は、他人の「こうしなさい、ああしなさい」や、「こうするべきだ」的な常識の皮を被ったアドバイスを聞くと、必ずこう思う。「その思考は誰から受け取ったの?」。この言葉は今まで自分の相棒かのごとく私の隣に居続けたのだけど、最近になってようやく「その思考は誰から受け取ったの?」をキャッチ【言語化】することができた。
 
おかげで「俺の価値観は俺が決める」ということの詳細を説明できる気がしてきた。こう、いろんな人に見受けられると私は思うのですが、例えば『年功序列』とか私はくそくらえと思っているタイプで、相手が年上というだけで「〇〇してくださいね」と年下の私は言われたりする。その〇〇の中身は丁寧な言葉かもしれない。周囲に流されないでくださいねとか、多分、親切心からそういうことを言ってくれるのだということがわかる。
 
だがしかし。私はひねくれているのか、速攻で「それは自分に言え」と思う。俺に言うな、お前自身に言えと。それはあなたの願望であって、私が望むところの姿ではない。そして、私は「こうしろああしろ」的な言葉に触れるたびに思うのだ。「その思考は誰から受け取ったの?」と。その常識を盾にした言葉、思考、それはあなた自身が考えた訳ではないのですよと。あなたは少なくともどこかの時点で、その常識の皮を被った思考を他の誰かから受け取っている訳だと。親からかもしれないし、学校の先生からかもしれない。どこかであなたはその言葉(正義だと思っているそれ)を自分ではない誰から仕入れ、そして、それをまた自分ではない外部へと卸している。
 
どうして私がその軽はずみな言葉をこれほどまでに嫌ってしまうのかというと、その安易な正義は、あなたの頭で考えてはいないと一瞬でわかってしまうからだ。(あんまりあなたあなたと言っていると誤解を招いてしまうかもしれない。ここで言う『あなた』は『適当な不特定多数』だと思っていただければ助かります)
 
当然、私自身も誰かのアイデア(考え方)をパクリながら生きている。多くの情報や知識に触れるたびに、私の思考(思想)は時計の針が進むのと同じ速度で変わっていっている。ただ、ここで問題になるのは「自分の頭で考えた結果」、そのようなことを思うに至ったのか否かということだ。
 
マジョリティの常識を、自分という人間を通して選別した結果、それでも尚、自分の中に生き残った「価値」であれば、それはもはや受け売りとは言えなくなる。ゆえに、受け売りでなければ、私が不愉快になることはない。私が言葉を紡ぐときに気をつけているのは、この言葉は自分の言葉になっているか、そうでないのか。自分の心に響いた言葉を自分の頭に一度浸透させてから外部に向けてアウトプットしているのか、そうでないのか。誰かの言葉を拾ってきて、それをこれ見よがしに誰かにアドバイスするのは結構だけれど、迷惑を被るのは常識をぶつけられた側の人間だ。偉そうに物を言う人に偉い人はいない。
 
なんか勢いよく書いていたら熱っぽくなってしまった。私の悪い癖だ。話が少しそれてしまった気がするので、本題に戻す。
 
「その思考は誰から受け取ったの?」を介することで私は思った。あやつの価値観があやつの価値観であるならば、私の価値観は私が決めていい、と。私が思うにほとんどの場合で、『世間の声』が自分の行く手を阻む。「普通」とはつまり「正義」だ。普通という名の正義が、普通じゃない人の『疑問』を押し潰す。そして、その普通という名の正義という名の大多数の意見は、往々にして過去の文化に則った考えられていない、古臭い、形骸化した、誰に恩恵ももたらさないクソみたいな意見だったりする。
 
それならばもういいじゃないかと。自分の価値観ぐらい自分で決めさせてくれと。いや、俺の価値観は俺で決めるよと。不特定多数が信じ切っているような価値観は、今の私を満たしてくれたことがない。残念ながら、残酷な真実だ。私にとって。それならば私は私が良いと思った価値観を、それを擁する人を愛したいのだ。
 
これを否定されることはないということが、今の私にとって『救い』みたいなものになっている。自分がいらないものはいらないといい、自分がいいなと思ったものはいいと言える自由。誰にも侵されることのない自分の価値観。臭い手垢のついた「現実」という言葉には、私はもう辟易している。時代は刻一刻と変化していっているというのに、過去の遺産である「前はこうしたら正解だったよ」が未だに脚にまとわりついてくる。「死なないためには食わないといけない、ゆえに労働せねばならない(できれば苦労して)」みたいな意見があるなら、私はこう言おう。「自分が生きていたいと思えるような世の中じゃなければ生きる意味もないよ」と。もっとも早く消滅したほうがいいと思うのは、『他人の領域を侵す自由』だ。死ぬのも生きるのも自由、私はただ、自分の領域を侵されることだけは大嫌いだ。