みっつ通信

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「何もしていないこと」が苦しみになるのではなく、「何もしてあげられないこと」が苦しみになる。

私は、一般的でいうところの仕事はしていない。僭越ながら、今の自分は「仕事しない仕事」をしていると思っている。一応、この仕事しない仕事について私なりの解釈を書こう。
 
一に、私のような何者でもない人間がいることで、誰かが失業などで何者でもなくなった時に、そのダメージを最小限に抑えるという役割。仕事してなくてもあいつみたいなのもへらへらして生きてるんだからとりあえずまぁ自分も平気だわくらいに思ってほしい。
 
ニに、こうしてブログを書くということ。これはちょっと立派なパーソナリティかもしれない。日々思っていることを書き記すことで、こんな自分でもそこそこ元気に寂しさまぎらわせて生きてますよアピールをする。あの人が元気なら私ももうちょっと気楽にいけるわぐらいに思ってほしい。
 
三に、と書こうとしたところでもう底をついてしまった。お恥ずかしい限りである。上の二つも含めて、私の存在など儚く消えるおやじギャグ程度に思っていただけると幸いである。
 
そして、決して仕事をすることを否定しているわけではないということは明確に記しておきたい。仕事をしている人のことは大いにリスペクトしているし、「仕事しない仕事」をしている人のこともその存在に勇気付けられている。というか、仕事してるかしてないかということは基本的にどうでもいいのだ。私にとって大切なのは、その人の人間性であって、人柄のよさとか礼儀正しさとかを重視して人と付き合っている。なので、仕事してるかしてないかより、傲慢なのか謙虚なのかのほうがずっとポイントなのだ。
 
もっとも、仕事をしていないことによりお金がなくなり、ゆえに「与えられなくなる」ということのほうがずっと深い問題であるように思う。人は働くということを通じて、自分の中にあるものを社会に提供し、それを生きがいにしているわけだ。私みたいな人間は「自分を生きることが社会貢献」と言っちゃう図太さがあるので、何もしない自分を卑下することは少ない(「暇に戸惑う弱気な僕」はいる)。それに「自分の生き方はこのままでいいのか」という弱音を吐いてしまうことは仕事をしているかしていないかにかかわらず、誰にでもあることではないだろうか。
 
多分、「与えられない苦しみ」が人の存在意義を揺るがす。普通は「与える」ということと「仕事をしている」ということが密接に結びついている。その為、仕事をしていないことがイコール「苦しみ」になり、その苦しみゆえに自暴自棄になりがちだ。少しでも自暴自棄になってしまうと、今度はそれを見た周囲から「だめ」というレッテルを貼られてしまったり、はたまた自分で自分にネガティブなレッテルを貼ったりすることによって本当にだめな気持ちに染まってしまうことがある。まずは自分を責めることをやめてみたら、私の場合、健やかになっていったということはここに強調しておきたい。自分が気にしている限り、他人も気にする。
 
「何もしていないこと」が苦しみになるのではなく、「何もしてあげられないこと」が苦しみになる。それは他人に対しても自分自身に対してもそうだ。自分のために、人のために、生きることができたら。自分に、人に、何かを与えられたら。多分、それは生きがいになる。死の直前まで、誰かのために生きることができたら。きっと、死ぬ瞬間まで生きたいと思えるのだろう。それが愛だ。
 
多分、何もない中で人にしてあげられることがあるとしたら、「あなたが生きてくれていることが嬉しい」と相手の心を見てまっすぐ言ってあげることだろう。心の奥には孤独がある。孤独の中には愛がある。見つめるのは怖い、その孤独の中にこそ愛がある。孤独と向き合い、孤独の中に溢れている愛を、人に向けて差し出すことができたら、きっと、ずっと、愛しさを忘れずに生きることができるのだろう。私は性善説を信じている。「一度会ったことは忘れないもんさ、思い出せないだけで」とは千と千尋の神隠しの銭婆のセリフだ。思い出そうぜ、愛を。