みっつ通信

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親からもらえなかった愛は、誰からもらってもいいんだよ。

私は、学校には一日も出席したことがない。義務教育を受けてもいなければ、高校に行ったこともない。強いて言えば、父親が自宅で託児所を営んでいたので、5歳くらいまでは同年齢の子どもたちと一緒には過ごしていたけれど、その当時の記憶はほとんどない。私の生い立ちは若干複雑で説明するのが少しめんどうなのだけど、13歳~15歳くらいの間の2年ほどは諸事情があり、私と弟が父親の身の回りの世話をし続けていた。
 
その間、父親からの家庭内暴力は激しかったし、母親も生活費を稼ぐことと父親からの命令に従うことで精一杯だったので、私たち兄弟は親からの愛を感じることができずに生きてきた。父親は私が16歳の時に亡くなっている。ずっと苦しかったから、私は多分、「愛」に飢えていたんだと思う。でも、今は「愛されていない」と思うことはなくなった。なぜだろうか。27歳になった今、昔よりは「自分は愛されている」と思っているし、その分だけ生きるのも楽になった。多分、以前の自分と比べて大きく変わったのは、「親からでなくても愛はもらっていい」と気付いたからじゃないかと思う。もしかしたらだけど、多くの人が「親からもらえなかった愛は親からもらわなくちゃいけない」という固定観念を持っているのではないだろうか。
 
私は10代のうちに親に期待をすることはやめた。自分と親を比べたいわけじゃないけれど、自分のほうが頭がいいと思っていたし、どうにも親を尊敬できなかった。父親はいろいろなことを偉そうに言うけれど、10代のころの自分にとっては「だって、お前の言うことを聞いたところで、お前のような人生になるんだろ?」と心の奥では尊敬どころか幻滅していた。楽しそうに生きている人の言葉なら聞きたいと思うが、普段から人の文句を言っているような人の言葉には説得力もなければ魅力も感じない。母親も、父親が死んだ後は仕事や恋愛で忙しかったし、私たち兄弟も自分たちが何を欲していたのかを鮮明に伝えることは難しかったので、あまり深いコミュニケーションは取れていなかった。
 
いろいろな理由が積み重なって、自分は早々に「親の性格は変わらない」と見切りをつけた。しかし、しばらくは母親から「生きているだけでいいよ」と言われること、つまり、愛が含まれたような言葉を欲してはいた。多分、親以外の人と接する機会が全くと言っていいほどなかったからだと思う。生活費を入れてくれることに対しては感謝をしていたけれど、10代の自分にとっては「お金」よりも「五感にふれる愛情」のほうが欲しかった。「働け」と言われても働くことができない自分の気持ちをわかってほしかった。
 
そして月日は流れ、24歳になったある日に「自分の力で何かしたい」という思いが強くなったことをきっかけに多くの人とふれあうことになった。その後の数年間を経て、私は、「親からもらえなかった愛は、別の人からもらえる」と気付いた。そうした気付きのおかげで、母親に対する期待を完全に取っ払えたんだと思う。それからというもの母親との関係は以前よりも良好になった気がする。多くの人とのコミュニケーション、好きな人とのスキンシップの中で愛を見つけることによって、母親からの愛にも気付いた。そっとしておいてくれる愛、お金の中に隠された愛情。親も人間だ。神じゃない。自分と同じで不器用なんだ、母親は。
 
きっと、親から愛をもらわなくちゃいけないというのは思い込みで、本当はそれが「愛」であれば誰からもらってもいい。世の中には愛を持つ人はいっぱいいる。自分を責めがちな私に対して、「生きているだけでいいよ」、「みっつはみっつを生きることが仕事だよ」、「生まれてきてくれてありがとう」と、本当は親に言ってもらいたかったことを多くの人にたくさん言ってもらった。愛を感じることができなかったときは自分の好き嫌いもよくわからなかったけれど、今は「これが好き」、「これが嫌い」と自分の求めるものが少しずつだけどわかってきた。
 
好きな人から好きと言ってもらえること、好きな人に自分の生き方を肯定してもらえることは、なによりも愛を感じられる。親の性格は変わらない。私は、母親に欲しい言葉を期待することを諦め、出会う前までは赤の他人だったはずの人から愛をもらうことを選んだ。今の自分があるのは、愛を教えてくれた人のおかげだ。愛を、ありがとうと思う。「親からでなくても、誰からも愛はもらえるんだ」と気付かせてくれてありがとうと思う。あなたが愛を教えてくれなかったら、私は自分を愛してくれる人の愛にまで気付けなかっただろう。私は、私を愛してくれる人のように人を愛せたらと、そんなことを思う。あなたがあなたらしくいてくれることを祈って、私も私らしくあり続けよう。