みっつ通信

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愛はそのまま、欲望は思うまま。

私はされて困る質問がある。それは、「仕事は何をされているんですか?」だ。場をつなぐためにその質問をする人もいれば、相手を品定めするために同じ質問をする人もいる。前者の場合、「ろくに興味もないのに適当な質問をしないでくれ」か、「訊くな、聴け」のどちらか(または両方)を心の中で念じながら、丹田に力を入れれば何とかやり過ごせる。後者の場合はたちが悪い。こちらが何者であるかを基準に人を判断してくる。多分、怖いのだろうと思う。初対面の時にすぐに「仕事は何を?」と聞いてしまうのは、一刻も早く安心したいからではないだろうか。

ここからは印象の話になるのだけど、相手が弁護士であったり、医者であったり、フリーターであったり、作家であったりすれば、その「肩書き」を通して、相手が普段は何をしているのかが見えてくる。だから、自分がどのような態度をとったらいいのかが明確になる。とにもかくにも相手をわかった気になりたいのだ。人を肩書きや「普段は何をしているのか」で判断し、それに伴った評価を下す。相手が自分よりも優位なら媚びるし、自分のほうが優位なら軽蔑の対象にする。これは競争社会たる所以だと思う。社会的に生きることを良しとしている人ほど、その傾向が強いのではないかと思う。

肩書き(職業)というのは、そもそもで印象でしかない。「フリーター」といえどもそれだけじゃ相手が普段何をしていてどのような人間でどのように生きているのかなんてわかりっこない。相手は「政治家」だから尊敬に値するみたいな思考停止は大いに滑稽であり、それぞれの肩書きに対する印象は妄想でしかない。その人自身に対して自分がどれだけ魅力を感じるかよりも、相手が社会的に認められている存在なのかのほうが優先されてしまうのだ。

肩書きでなくても、「外見」によって印象付けが行われることは多い。昔の日本の美人の条件は「目が細い」だったが、今は「おめめぱっちり」がもてはやされるところを見るに、人は多数派の価値観を良しとする傾向にある。今の時代は「みんながいい」というものをみんなが追い求めているように思える。本当は個々でそれぞれの好き嫌いがあるのは当然のことように感じるのだけど、不思議と人はマイノリティであることをイコール「可哀想」なことと思っているように思える。目が細ければ不細工だと言われたら、どれだけの人が不細工なんだよと言いたい。欧米人じゃあるまいし。それにしても日本の自殺者数を鑑みるに、日本のスクールカーストは大人たちの価値観を反映してるようにしか見えない。多数が正義の時代はそろそろ終わりにしたらどうだろうか。大人のいじめが横行しているから、子供のいじめも横行するんじゃないだろうか。

肩書きの話に戻ると、これだけ自分を生きるのが難しい世の中だと、どうしたって肩書きを盾にしたくなる気持ちもわかる。どりあえず大学生だったら、見知らぬ人には「大学生です」と言っておけば怪しげな目を向けられることもなくなる。自分の好きなように生きることもとりあえず肩書きという名刺がないと、あまりにも足を引っ張られやすくなるのだ。少しでも自分の好きなようにやろうとすると、よほど我慢している人が多いのか、アドバイスの皮を被った優しさという名の「出る杭打ち」が始まる。

別にお前に養われているわけじゃないんだから(お前に迷惑かけているわけじゃないんだから)、これぐらい好きにやらせてくれよと思うことは多い。自分の食い扶持ぐらい自分で稼げも何も(働かざる者食うべからず論)、それはこっちの家庭の話であって、お前は赤の他人やんけと思うことは往々にしてある。どれだけ「労働」が崇高なことなんだよと感じてしまう。かのアウシュビッツ収容所の入場門には「働けば自由になる」と掲げられている。皮肉だなと思う。「働いてる場合じゃない、遊べ」と思う。最近、私が好きな言葉は「死ぬまで遊べよ」だ。アリのように溜め込んでる場合じゃない、キリギリスになれ。


私は、「社会的に生きようとすることはただの執着」だと思っている。多分、金や権力を目当てにしている人は多い。別にそれを否定するつもりはないけれど、私にはそんなことはどうでもよいのだ。たまたま金や夢を追いかけることが社会的に生きることと同義になっているから、それを信奉することで多数派の安心感に埋もれているだけだ。私は、自分を殺すぐらいだったら死んだほうがマシだと思っている。「自分は我慢しているんだから、お前も我慢しろ」みたいな言説をよく見聞きするけれど、お前は我慢することで金やそれに伴った報酬を得られているじゃないかと思う。同じように私も、金や肩書きは得られない分、自分を生きることで自分を殺さずに済んでいるんだよと。そういうことを言いたくなるときは多い。今の私にとって、「こうしなさい」、「こうしたほうがいいよ」というアドバイスは「死ね」と言われているように感じる。

自分はすべてを知っているという感覚で生きるのはつまらない。自分には知らない世界があるからこそ、希望を持って生きていけるんじゃないか。それを自分の知らない世界が存在してはならないと言わんばかりに、自分の頭の中にある現実だけを周囲に押し付けて生きてしまっては老ける。若々しさというのは、わからないことをわからないままにしておける強さがあるからこそ成り立つのではないかと思う。「休日は何をされているんですか?」という質問に私が辟易してしまうのは、私には休日なんてないからだ。「普段は何をされているんですか?」という質問に私が困ってしまうのは、私には普段なんてないからだ。「仕事は何をされているんですか?」という質問に私が苦手意識を持つのは、私には「仕事」なんてないからだ。私はそうした質問の類の端々に「社会」という生き物を垣間見てうんざりする。そんなことはどうでもいいとしか思えないのだ。

相手を自分の思うままにしようとすることは「欲望」の表れだ。私はあなたのことを想っているという態度を見せながらも、実は相手のことを「自分の思うように」したいだけなんだろうなと感じることはよくある。それは「欲望」であって「愛」ではない。優しくしたいという気持ちもわからないでもないが、そのやさしさは愛じゃない。

数ヶ月前に、弟と「無理をしないで」という言葉について話をしたことがある。私は「無理をするな」と言われると、頭では相手の気遣いだとわかっていながらも、心では「無理をしようがしまいが俺の勝手でしょ!」と思ってしまうことがあると弟に言った。そしたら、弟は「そうだね、本当は相手もこっちのことを思って言おうとしてくれてるんだろうね、でも、相手はこっちのほしい気持ちなんてくれやしないよね」と言った。私はそこに愛と欲望の違いを見る。その時、私は多少憤慨していたので、弟に熱い思いをぶつけさせてもらっていた。いよいよ私のボルテージが最高潮になったあたりで、弟は私の気持ちを汲んでくれたのか、とある一言を空中に言い放った。「『無理をするな』ってバカヤロウ、生きてるだけで無理してるわ!」と。私は爆笑してしまった。笑ったおかげかいつの間にか怒りは消えており、私は穏やかさを取り戻していた。心からの会話は心を如実に回復させる。

表面上のやさしさは「いい子」の皮を被っているから、一見、「愛」のようにも思える。が、本当の愛とは、相手を「そのままにする力」があるように思えてならない。自分を取り戻させてくれる力が、愛にはある。愛には、想いがある。それに対して、やさしさや気遣いは「嫌われたくない」という意識、言い換えると「欲望」が入り混じっており、欲望が含まれた言葉を聞くと、私は、「いいからほっといてくれ!」と自暴自棄になりそうになる。私の受け取り方がおかしいのだろうか。私が、「やめてくれ!」と反応してしまうことは、私の性格によってだろうか。それとも、相手の欲望に対して反応しているのだろうか。

愛は相手をそのままにしておける強さ、欲望は相手を自分の思うままにしたい弱さ。「愛はそのまま、欲望は思うまま」、そう覚えることにしている。相手がそのままであってくれることを祈ること。相手を自分の思い通りにしようなんて思わないこと。欲望と愛を履き違えないこと。心を汚くしないと生きていけないなんて、そんなことはないと思う。