みっつ通信

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「何もしない」ことは最高の美徳。

最近は朝起きたらブログを書かずにはいられない。習慣化したということだろうか。毎日のようにブログを更新しているけれど、こんなに文章を書く意味があるのだろうかと思ってしまう。昔からの悪い癖で、すぐに自分のやり出したことについて考えては「こんなことして何の意味があるのか」と意味を問うてしまう。

でも、今は昔よりは強くなった気がする。自分のやることに意味なんてなくてもいいじゃないかと開き直るようになった。文章を書くことも本当は「いかに自分の気持ちを伝えるか」というところが大切なんだろうけど、今の私は「書けば書くだけ文章は上手くなる」というところに価値を置いている。

少なくとも人の目に触れるような場所に自分の意見を置いている以上、こんなこと言ったら怒られるのかもしれない。それでも、しなくちゃと思ってしているわけじゃない。したいからしている。それだけが救いだ。

批判に負けるな。

私は神経質なのか、人のささいな言葉にも傷つく。自信がないからだろうか。図星だからなのだろうか。「もっとこうしたらいいよ」みたいな助言をもらうと、瀕死の重傷レベルでダメージをくらう。

最初は怒りがこみ上げてくる。「どうしてお前が正しいと言い切れる?」とか「どうして俺の自由を侵す?」とか、でもそのうち自分が傷ついているんだということに気付き始める。

怒りの後は悲しみがやってくる。「どうせ俺なんて生きている価値がない」とか「生まれてきてごめんなさい」とか、どうせ俺なんかという悲しみに暮れる。

でも、一通り感情を出し切ると晴れる。もういいや今の俺にできることは歩き続けることだけだと前を向けるようになる。

感受性が豊かなんだよと言ってくれる人はいるだろうか。それともまた別の気遣いで心に土足で踏み込んでくるのだろうか。

多分、人は「いい感じの人にほどケチをつけたくなる性質」があるんじゃないかと思う。いい感じに生きている人ほど、ああしろこうしろと言われるんだと思う。

我慢をしている人は他人にも我慢を強制する。この世の中にはやって当たり前のことがあると思い込んでいる。批判をされるということは羨ましがられている証拠でもあると思う。批判をされてもなお自分の道を進もうとしている人を見ると勇気付けられる。

これは自分にも言いたい。負けないでほしい。

深い関係になるということは、どれだけ相手と心を通い合わせたか。

一方通行の恋を今まで何度か見かけてきた。私は不思議と相談されやすい性質があるらしい。Aさんのことが気になるBさんが「Aさんはどんな気持ちなのかな」と、なぜか第三者である私に聞いてくる。

私にはAさんの気持ちなどわかりっこないので言葉が見つからなくなる。かといってアドバイスを相手が欲しているようには見えないので、私はただただ話を聞く。

私はそういう相談を受けるのはまったくもって大丈夫なのだけど、まれにAさんのことを忘れられないBさんがいつまで経っても私にAさんの話をしてくる場合がある。

これに関しては「大丈夫。傷ついたんだね」と言うことしかできない。

私は「深い関係になるということはセックスをすることではない」と思っている。「セックスをした=付き合っている」という式は完成しない。いかに相手と深いところで心を通い合わせ続けているか。それができていない限り、セックスをしたところでただの一方通行の恋で終わる。

私は失恋とは「幸福の中の不幸」みたいなものだと思っている。どれだけ傷ついたところで時間が過ぎてみれば「いい思い出」みたいなもので、別にそれほど不幸なことがあったとは思わない。

恋に恋するのはいい。けれど、相手と深い関係になりたいのであったら傷つく覚悟を持って相手と接することしかないんじゃないかなと思っている。嫌われたら嫌われたでしょうがない。

恋愛経験が少ない私がこんなこと言うのもあれだけども、恋愛とは斬り合うものでしょと思う。斬り合うということは傷つくということだ。恋愛とは切り離しても、この斬り合いに関しては全体の人間関係にも言えるんじゃないかと思う。

深い関係になるということは、どれだけ相手と心を通い合わせたかではないかと思う。斬り合いには必ず緊張感がある。人は優しさと優しさでつながっているというより、傷と傷でつながっているんじゃないかと思う。

「何もしない」ことは最高の美徳。

昨日は「自分を消せ」という言葉が頭の中から離れなかった。「幸福とは何か」について考えすぎていたのがいけないのかもしれない。

トランプ大統領が「この世にfact(事実)はない、あるのはopinion(意見)のみ」というようなことを言っていたのを思い出す。数多くの哲学者や宗教家が幸福とは何かについては語っているので、これは所詮私の戯れ言のようなものになるけれど、幸福とは「自分が消えている状態に感じるもの」ではないかと思った。

幸福を語るということは「生きるとは何か」を語るレベルの話のような気がするので、あんまり安易なことも言いたくないのだけど、語り場がなければ語りようがないのでそこは気にせずどんどん語っちゃいたいと思う。

自分はどんなときに幸福を感じているのか。もしかしたら幸福なんて感じられるには程遠い場所にいるのかもしれないと思った。けれど幸福みたいなものを感じている瞬間ならあるにはあるんじゃないかとも思った。

瞬間最大風速的な幸福でいえば「フローな状態」に感じていると思う。テレビゲームとか映画鑑賞とかスポーツをしているときとか文章を書いているときとか、何かに超集中しているときはまるで夢の中にいるような気分になる。

超集中している状態から離れると、自分が今まで何をしていたのか思い出せないくらいになる。昨日はテレビゲームを小一時間やっていたのだけど、それをやめた後に「あれ俺は今さっきまで何をしていたんだっけ」という、まさに夢から覚めた状態のような感覚になった。

この何かに超集中している状態というのは瞬間最大風速的な幸福感がある。しかし、人間の集中状態はそうそう長くは続かない。だから、どんなに面白いことをやっていても、いつかは夢から覚めてしまう。

フローな状態が多幸感のようなものだとすれば、延々続くような幸福とは何か。

これもある種のフローとは言えるんだけど、少し意味合いが違う。私は、生かしてくれるものに生かされている状態のときに幸福感を覚えることがある。ただ与えられているだけの状態。それはまるで自然に死んでいくことを許されているような安心感がある。

幸福とは、多分、生きることへの執着から解き放たれた状態にある。本当の意味での「生きる」とは「ただ流れに身をまかせる」ということなのではないだろうか。

「生きる」と聞くと、ただ生きているという意味ではなく、一生懸命に生きるとか生きていることを楽しむとかそういう生を謳歌するような連想をする。多分、そう生きたほうが幸せだと思う人がいるからだ。

しかし私は思う。それが生きるという意味だとすると、一生懸命に生きていなかったり、生きていることを楽しんでいなかったりすると死んでいるということになる。生きているのに死んでいるという状態は限りなく不幸に近い。

どうせ生きているんだから楽しまなくちゃだと、楽しんでいないことに罪の意識さえ抱く。何もしていないことに対する罪悪感を覚える。

私は「何もしないことは最高の美徳」だと思う。不幸というのは何もしないから起こるのではなく、何かをするから起こるものだ。

本当の意味での生きるとは、人生そのものがフローのような状態になることではないかと思う。その状態に入るには、まずは自分を消す必要がある。

自分を消すとは死ぬという意味ではない。何かに集中しているときのようにこの世から自分が消えてしまっているような状態のことを指している。この世にいないという意味では死んでいるという解釈もできる。

死と一体化しているような感覚、自分がこの世にいないような感覚は、生きることに対する執着を捨て切って初めて感じられるような気がする。

それこそ生きているだけでいいというような状態。生きているだけで感謝の念が溢れ出してくるような状態こそを幸福というのではないだろうか。

他人を責めるような気持ちになっているときは全面的に自分が押し出されてしまっている。

私はそんなことを一日中考えていたら、「まずは自分を消すことだ」という思いに至った。流れに身をまかせるように生きることが幸福なんじゃないかとそう思った。

生きていると何かをしなくちゃいけない、何もしていない自分には価値がないみたいな気持ちになる時がある。私はこの自分を責めてしまうような感覚を、諸悪の根源だとさえ思う。

「何もしない」ことは最高の美徳だと思う。何かを無理にしようとするから不幸は起こる。何もしなければ誰も傷つけない。自分を責めるような動機で始めたことはいつか他人を責める動機になると思う。

自分の体が勝手に動いちゃうような、そんな気持ちになったときに動けばいいんだと思う。今しかできないことは今しかできない。動きたいと思ったときに動くことも、何もしたくないときに何もしないことも今しかできない。人間はいつか死ぬ。それならば、自分の心がいいなと思ったほうへ歩き続けていくことが、巡り巡って自分自身を幸せにするんだと思う。