みっつ通信

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生きているだけでいい。

ブログを書かないでいられるということは毎日をいい感じに過ごしている証拠なのかもしれない。ありがたいことだけど、たまには何にもなくても文章を書きたくなる。私は生きてるよ、あなたも生きてるかい?と確かめたいのかもしれない。
 
気付けば、もうすぐクリスマスだ。思えば、クリスマスプレゼントというものをもらった記憶がほとんどない。お正月にお年玉をもらったことも、ほとんどなかった。最近になって、とても親しい人からお年玉をもらったりすることがあって、そのことをとても嬉しく思う。
 
あなたを見てるよ、という気持ちを感じられることに、より嬉しさを感じるのかもしれない。あなたに見てもらえていることに、私は生きている実感を見出す。
 
 
最近は不思議と「ここ1~2年は今までの人生でいちばん幸せだった」とふとした拍子に思うことがある。いま余裕があるからこそ、そう思えるのかもしれない。
 
そういえば男性は25が厄年で、24,26が前厄,後厄らしい。この前自分は27になったので、ちょうど厄年から抜け出たことになる。もしかしたら、そういうことも関係していたりしていなかったり。
 
思えば、ちょうど誕生日を迎えたあたりから自分のペースというものを掴めるようになってきた気がする。たとえば、お誘いがきても自分が行きたくないなと思えば断ることもできるようになってきた。少し前までは、「誘われたら全部YESと言わなければいけない」と思っていた。
 
無理をしなくなったということだろうか。行きたくなければ行かないし、逆に、会いにいくかどうかは自分が「本当に会いたい」と思ったときだけ会いにいくようにしている。「~しなければいけない」みたいな半ば義務的な行動はやめたい。せっかく誘ってくれた相手にも失礼だと思うし、自分に正直であることが何よりも誠実だと思うからだ。
 
いってしまえば義務教育を受けずに育ち、かといって今も勤労の義務を果たしているわけでもないのに今さらこの年齢になって「しなければいけない」に縛られるのも自分の人生的にどうかとも思う。
 
 
「しなければいけない」に従っていた今まではいろいろな葛藤があったけれど、最近はいろいろと吹っ切れたのか、静かな自由を感じている。自分が消えているような感覚。こうしなければとか、人にどう思われるかとか、そういうことがあまり気にならなくなった。巷では腐るほど言われているだろうけど、「自分は自分のままでいい」と心から思えているのかもしれない。
 
人はいろいろな事情があって生きている。でも、物事をそのまま見れば、ただそこに人が生きているだけだ。世間体みたいなものだったり、肩書きみたいなものであったり、そういうものは後付けの価値観だ。ただそこに人が歩き、ただそこに人が生きている。自分も、他人も。最初からありのままだ。見る目が濁らなければ、多分、何かに反応することもなくなる。
 
 
この文章を読んでくれているあなたに唯一自分が伝えたいことがあるとすれば、それは、「生きているだけでいい」だ。生きているだけでいいよ、充分だよと言いたい。たまに「生きているだけじゃだめなんだ」と思うこともあるけれど、全部ひっくるめてそれでいいよと言いたい。これはきっと自分自身に向けても書いているんだろうなと思う。
 
生きているのが辛い、死んでしまいたいくらい辛いという人も大勢いるだろう。日本には自殺者が年間3万人おり、うつ病患者も100万人くらいいると聞いたことがある。いま辛さの真っ只中にいる人に「生きているだけでいい」なんていっても何にも響かないかもしれない。
 
「死にたい」という気持ちを私は尊重したいと思う。話は少し変わるけれど、私には愛する人がいる。愛する人といる時間は楽しい。その瞬間さえあれば、これからも生きていけるような気がしてくるくらい温もりのある時間だ。もしも、そんな私の愛する人が「死にたい」と言ったなら、私はきっと聞くことしかできないだろう。
 
聞くことしかできないけれど、それでも、その死にたいという気持ちを私に話してくれたことで、きっと、私は「あなたをもらったことになる」んじゃないかと思う。
 
あなたの気持ちを、私は私の中にいれる。これであなたは一人じゃないはずだ。今まで何回も言ってきてしまっているけれど、きっと「話すは離す」だ。でも、離した後にはもっと先がある。
 
離された気持ちは、自分の分身となって相手に着地する。多分、話すということは相手を信頼しようとする行為だ。そして、信頼は愛を呼ぶ。自分の中にあるものを相手に投げ出す。それが愛の始まりだ。
 
日本はよく豊かな国だと言われるが、果たして本当にそうだろうか。なぜ豊かな国が三万人もの自殺者を出すのだろうか。ご飯がないからじゃない。マザー・テレサも言っているけれど、人は愛に飢えているんだ。
 
そして、愛とはきっと、相手のことを信じることだ。相手のことを信じ、自分の本当の気持ちを話すことは相手を愛することにつながる。逆に、人の話をじっくり聞くということは愛されることにつながるのではないかとそう思う。
 
言葉だけではない。人はいろんな方法で人を愛することができる。キスをすること、手をつなぐこと。抱きしめること。優しさを思い出すこと。笑顔を見せ合うこと。人の幸せを祈ること。
 
孤独であることが辛いのは、自分を届ける相手がいないからだと思う。自分の命を分散するほどに人は人を愛せるようになるのかもしれない。自分を相手に向かって投げ出すことは、自分の命を増やす。自分が宿った相手を、人はそう簡単に攻撃することはできないと思う。
 
 
この前、ブックカフェで本を読んでいた。個人的にサッカーが好きなので、サッカーに関する本を読んでいたのだけど、文中にとても「いい!」と思える言葉があったので紹介させていただきたいと思う。
 
最初に学んだのは、私の両親からだ。彼らが教えてくれたのは『真実を話しなさい』ということ。『絶対的な真実じゃなくていい。あなたにとっての真実をね。そして、相手に直接話しなさい。人に誠実でありなさい。もし、敵になるならそれでもいい。でも、それをはっきりと言いなさい。適当にごまかしたり、好きなふりをしないこと』。 - ブラジル代表監督 チッチ『footballista』より引用
 
最近、自分もちょうど「絶対的な真実はわからないけど、自分にとっての真実ならある」と思っていたところにこの言葉が目に飛び込んできた。人に誠実であるということは、こういうことだと思う。最後の「適当にごまかしたり、好きなふりをしないこと」という言葉も本当に胸に響く。
 
真実を話そう、と思う。私は自分にとっての真実をこのブログ記事に書くことができていたらいいなと思う。「生きているだけでいい」という言葉に魂が宿っていればと。
 
 
近頃は投げたものが返ってくると感じることが増えた。というよりも、自分が出した気持ちや感情はそのまま自分自身の中に広がるといったほうが適切かもしれない。
 
マザー・テレサは「あなたに出会った人がみな、最高の気分になれるように、親切と慈しみを込めて人に接しなさい。あなたの愛が表情や眼差し、微笑み、言葉にあらわれるようにするのです。」と言っていた。
 
人に慈しみを持てば、きっと、自分自身の中で慈しみが広がる。そうしたら自分自身も愛で溢れていく、そんなような気がしている。愛する、その瞬間に相手と溶け合う。そして、いつしか自分と他人との境界線はなくなる。
 
損得勘定で動いたり、自分を卑下したりすれば、やがて「自分が自分が!」となってしまうように思う。
 
自分を殺そう。自分を殺すというと我慢するというニュアンスにも聞こえてしまうかもしれないけど、言いたいことはまったく逆だ。自分をないがしろにしないで。自分という我が自分の中で猛威を振るわないようにしよう。自分の心を大切にしよう。「自分が自分が!」という自分を殺そう。
 
「あなたは私で、私はあなた」なら、まずは自分を受け入れてしまうことだと思う。そうすれば、きっと他人を受け入れられるようになり、やがて自分は消えていくのではないだろうか。そこに自由があるのではないだろうか。他人も、自分も、きっと同じだ。すくなくとも同じ人間であることは間違いないはずだ。
 
許し、許され、ともに進んでいこう。生きているだけでいいという言葉が必要なくなるその日まで。