みっつ通信

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夢なんか持たなくてもいいから、今この瞬間に自分がしたいことを目一杯して死ね。

私はやりたいことがない。ちなみにこの「やりたいことがない」ということを細かく砕くと、「やりたいことがないというのは、世間に公言できるレベルではやりたいことはない」という意味に変わる。

例えば、オリンピックで金メダルを取ることを目標にするとか、プロのサッカー選手になって日本代表を目指すとか、そういう人生をかけてやるようなレベルでのやりたいことはない。そして、つまりこれが世間一般的に言うところの「やりたいことがない」だと思う。

自分は学校に行ったことはないし、小さい頃に多くの人に囲まれていたわけでもないので、人づてに聞いた話になるのだけど、私の周りにいる人は子供の頃から「将来の夢は?」とか、「大きくなったら何になりたいの?」とか聞かれながら育ったらしい。

私の知り合いは幼稚園の頃に「将来の夢は?」と聞かれて「ケーキ屋さんになりたい」と言ったことがあったらしい。が、実のところ「ケーキが食べたかった」からケーキ屋さんになりたいと言っていただけだったとのことだ。

「将来の夢」や「大きくなったら何になりたいか」なんて、私は大人になった今でもわからないまま生きている。それなのにまだ世間や社会というものを知らない子供に対して、そんな質問をしたところでまったくもって無意味なんじゃないかと思ってしまう。

「夢や目標を持つことは素晴らしい」という価値観の前では、大人さえ子供に向かって「やりたいことは何か」を問う社会になってしまう。子供は大人の期待に応えようとするものだと思う。大人が「なりたい職業は?」なんて聞き続ければ、子供は嘘でも「ケーキ屋さん」と言ってしまうことになるだろう。そう答えておけばそつがないからだ。

しかし、どうだろう。今の大人たちはやりたいことがある人のほうが多いだろうか。実はほとんどの人は「なんとなく生きているだけ」なんじゃないだろうか。当たり前のようにレールの上に乗って生きていくことが普通になっているんじゃないだろうか。

私はそういう風潮や常識を非難したいわけではない。大人がしっかりしろと言いたいわけでもない。ただ、普通は夢にするほどの「ビッグなやりたいこと」なんて誰もが持てるようなものではないと思うのだ。そういう意味で、私もやりたいことがないのだ。

「やりたいことがなければいけない」という強迫観念について。

幼稚園~小学校低学年くらいまでは「将来の夢は?」という質問を適当な答えで回避しておけば問題ないかもしれない。が、中学校くらいになってくると、「将来の夢は?」が「志望は?」になってくる。

現実が迫る。これは予測めいているけれど、そういうような質問を段階的にされ続ければ、自然と「夢や目標は持っていなくてはだめ」という強迫的な観念が染み付いてしまうんじゃないかと思う。

ゆえにある程度の年齢になっても「やりたいことはない」と言うと「そんなんじゃだめじゃない?」という空気感に出くわすこともある。場合によっては無気力と決めつけられるかもしれない。何なら「最近の若者は~」という言葉にくくられてしまう危険性もある。

世の中の風潮が「やりたいことがないとだめ」だと、個人は「やりたいことがなければいけない」という強迫観念を持ちかねない。最悪、「やりたいことがない自分なんて・・・」という自責の念にとらわれる可能性も出てくる。

しかし、そんな人生をかけてもいいと思えるような「やりたいこと」なんていったいどれだけの人が持っていようか。夢や目標は持っていたら奇跡だと思う。世間的に言うレベルでの「やりたいこと」はあったら超絶恵まれているほうだと思う。お金持ちで教養のある親の元に生まれたレベルでのミラクルだと思う。

ほとんどの人はやりたいことなんてないと思う。これは私見にすぎない。が、やりたいことがないというのは夢を持つレベルの話である。逆に、小さいけどやりたいことなら多くの人は持っているんじゃないかと思う。生きていればみな、大なり小なりあれしたいこれしたいくらいの欲は出てくるものだと思う。

私はそういう規模は小さいけれど「個人的にはやりたくてたまらないこと」を一生懸命にやっていったほうが、持ちたくもない夢や目標を持つよりもずっといいんじゃないかということを言いたいのだ。私にだって人様に堂々と宣言できるようなやりたいことはなくとも、いま目の前にある「したい」ならば無数にある。

夢ってなんだ。

私は思う。「ミュージシャンになりたい」とか、「俳優になりたい」とか、結構、嘘が混じっていると。誤解のないように言うと、そういう「○○になりたい」は世間受けはするし応援もされるだろうけど、実際は建前なんじゃなかろうかということだ。

「〇〇で食っていきたい」は嘘だ。ミュージシャンになりたいのではなく、本当は音楽がやりたいんだ。歌が歌いたい、楽器を弾きたい、ライブハウスの一体感が好きがトゥルーだ。俳優になりたいのではなく、演技がしたいがトゥルーだ。

これは建前で生きるなとかそういう説教臭いことが言いたいわけではない。建前は世渡り的に必要だと思う。が、建前を言うばかりに自分の本音がわからなくなってしまったら元も子もないと思うのだ。

それに夢を語るなと言いたいわけでもない。自分が何を欲しているのかわからなくなると辛いからこそ、今の自分はいったい何がしたいのかはある程度把握しておいたほうが無難ということだ。

それによく聞く話がある。夢を叶えた後は虚無感を覚える、楽しかったのは夢を叶えようと一生懸命になっていた時【今を生きていた時】だったと。夢をゴールにするんじゃない。人生は道だ。今この瞬間が人生であり、そこをおろそかにしては人生そのものがおろそかになる。

多分、私が言いたいのは、「これをやっとけば他からよく思われるだろう」という気持ちでやっていることは自分を幸せにしないということだ。

10年後よりも今だろ。

夢や目標なんて概念はどうでもいい。多分、名誉や権力や金などもどうでもいい。それらはあったら嬉しいかもしれないもの『おまけ』であって、きっと、一番に欲しいのは「今やってて楽しいこと」だと思う。

やってて楽しいこと。これを読んでくれている人は何をやっている時が楽しいだろうか。「夢を叶えることが楽しいです」と言う人は少ないと思う。多くの人は、いま目の前にある大好きなことをやっているときのほうが楽しいはずだ。

夢や目標を達成することは結果であり、いま夢中になってやれることは今この瞬間にしかない。だからこそ、夢を叶えること(結果だけを求めること)よりも夢を叶えようと必死になっているとき【行程】のほうが楽しかったという人がいるのではないだろうか。

私はでっかいことではなく、むしろ小さいことに着目してほしいと思っちゃう。小さいことというと言いたいこととは少しずれる。小さいではなく、いや小さいことこそ"全て"だ。全ては今にしかない。今にしか、楽しいことはない。

よく10年後の自分はどうなっていたいかなんてことを耳にする。が、私はそういう類の話は苦手だ。そんな未来の話は今の自分が決められるようなことだとは思わないし、そんなことばっかり考えていたら、仮に自分が50歳になった時でさえ10年後はどうなっていたいかを考えていそうで怖いのだ。

「今の自分は、過去に自分が考えてきた自分の姿である」という言葉がある。同感だ。アインシュタインも「私は未来のことを考えたことはない。すぐに現実になるからだ」と言っている。私は、将来のことを考えられる人はすごいなと思う。私には真似できないからだ。

みんな自分と同じ考え方をしてほしいと思っているわけではない。ただ、みんな本当は10年後の自分なんて興味ないだろと。本当は今を楽しみたいんだろと。私は思う。今やりたいことを積み重ねていくからこそ、結果的にやりたいことができるんだと。

やりたいことはないのが当たり前で、いま目の前にあるなんとなく興味があるものを手にとって初めて、それがやりたいことになっていく。だから、将来のことも大切かもしれないけど、それよりもいま目の前にある気になるものを手にとり挑戦することのほうがずっと大切だと思うのだ。

生き方の話よりも、在り方の話がしたいのだ。

私はどうしてこのような文章を書いているのか。それは、多分、これを読んだ人に楽になってほしいからだ。自由を感じてほしいからだ。

自分がいま書いていることは私自身を楽にした。以前までの自分は、例えば、「(学校に行かなかった関係で)漢字を書けるようになれば今よりも幸せになれる」とか、「資格を取れば幸せになれる」とか、「仕事をすれば何にも気にせず生きていけるようになる」とか、自分の外部に幸せの根拠を求めていた。

だが、違った。根本的な問題は自分自身の思考にあった。「こうすれば幸せになる」なんてことはなかった。肩書きを持てば、起業をすれば。何から何まで今の自分を否定し、「こうすれば良くなるはず」という思考にとらわれていた。

こうすれば幸せになれるなんて保証はどこにもない。そもそもで「幸せ」なんて作られた概念でしかない。

私は、多分、今までの人生で「社会」というものに対して違和感を持っていた。ちゃんとした人間になることが正しくて、それに不満を持つことはいけない、言っちゃいけないと思っていた。

だが、本当の自分の気持ちはなんだろう。本当の自分は「違和感を持っている自分」だ。それをごまかしながら、社会の常識に従っていって果たして幸せになんてなれるものだろうか。

私は、自分の違和感を信じてもいいんだと気付いた。社会の常識に従うんじゃなくて、自分の常識を作ればいいんだと気付いた。自分はもっと自由に生きていいんだと。

自分がやりたくないことをやっていると、「ずっとこのままなのかな」という絶望感に襲われることがある。しかし、それを決めているのは自分自身だ。嫌だったらやめていい。それは、責任を放棄することではない。むしろ、自分の人生に責任を持っているからこそやめることができるんだ。

自分で決めること。自由と責任ってイコールだ。自分で選べば、自分で道を切り開いたという感覚を手に入れることができる。最悪のパターンを引き受ける覚悟【死んでもいいという気持ち】があれば、人間は恐怖に立ち向かえる。レールに乗っかっているだけじゃわからない、自分自身には力があるのだということを知ることができる。

本当は怖いけど考えないようにしていることにこそ、本来の自分がやりたいことが隠れているはずだ。

正直、自分の考えを表に出すことにはある種の恐怖がある。でも、今の自分にできることはこれだ。こうして思いをさらけ出すことだ。

今の時代には必要なのは、夢よりも希望だと思う。夢はある地点を指しているのに対して、希望は在り方の話に近い。

私は夢を持つことは悪いことだとは思わないが、ただ、夢を追いかけるために今を犠牲にはしたくない。

希望の話がしたいのだ。こんな在り方も許されるということ、こういう考え方をしていてもいいのだということ。そんな自由【人の在り方】の話がしたいのだ。

生き方(夢)の話よりも、在り方(希望)の話がしたいのだ。

夢なんか持たなくてもいいから、今この瞬間に自分がしたいことを目一杯して死ね。

人は何もしていない自分を責めたりすることがある。けれども、言葉通り本当に何もしていない時は限りなく少ない。ただひたすらぼーっとしているだけじゃないはずだ。生きている以上、ご飯を食べたり、寝たり、遊んだり、働いたり、いろいろしていると思う。

ゆっくりするということはただぼーっとしているだけじゃない。日向ぼっこしたり、花を見たり、パソコンしたり、コーヒーを飲んだりしている。それらのことをまとめてゆっくりしているという。

人が自分を責める時は、大抵、世間的によしとされているようなことを自分がやれていない時だ。何もしていないから自分を責めるんじゃない。周りに「これをやれ」と責め立てられているような気分になるから自分を責めるのだ。

私は、周りが褒めてくれるからという理由で自分のやりたいことを放棄するなんてことはしたくない。それに周りがこれをやれということに耳を貸さずに自分を突っ走っている人はすごくいい感じだなとも思う。

こんな話を聞いたことがある。日本では善というと社会的によしとされていることを指すが、ある国では自分のためになることなら善という。

これは自分を肯定するために言いたい。

夢なんか持たなくてもいいから、今この瞬間に自分がしたいことを目一杯して死ね。食っていけなくてもいいから、いま自分がやりたいと思ったことをやってくたばれ。自分がいつ死ぬかなんて誰にもわからない。それならば、やったほうがいいことではなく、今の自分がやりたいこと【今の自分にできること】をやっていこう。