みっつ通信

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みっつ通信

LIVE FREE OR DIE 自由に生きるか さもなくば死を CARPE DIEM その日を摘め

人生は甘い。(ほしい物リストに翻弄されるの巻)

今日も自宅に贈り物が届いた。わたしがほしい物リストにいれていた携帯用シェーバーと、エネループ(単三)&充電器セット。
 
実をいうと昨日、ほしい物リストを整理しようと思って、自分のほしい物リストをながめていた。
 
ガチでほしい物だけ入れとかないと贈ろうとしてくれる人に対して失礼だと思ったからだ。
 
いったん全部削除してしまおうかと考えながら、ほしい物リストをチェックしていると、あれ?と思った。
 
自分が入れていたはずのシェーバーと電池がない!と気付いた。
 
ほしい物リストは必要数を1個にしておく場合、商品が送られた時点でほしい物リストからその商品は消える仕組みになっている。
 
わたしはそれに気付くまで、シェーバーとか電池ぐらい自分で買えって話かもなあとか思っていた。だから、内心しぶしぶほしい物リストから外してしまおうかと考えていた。
 
そしたら、である。
 
ないわけである。
 
これは、だれかが俺にシェーバーと電池を送ってくれたってことや!!と内心爆発的に喜んだ。
 
でも、まだ実際に商品が手元に届いているわけではないのでぬか喜びするわけにはいかない。
 
ということで、昨日はそうそうに寝た。
 
 
今日おきて、ひとりトイレにこもりながら、心の中で(今日はチャイムも鳴らなかったし商品届かなかったなあ)とやや塞ぎ込み、そしていよいよ「ぬか喜び説」はまじなんじゃないかと怯え始めた。
 
小さな不安を大きな不安にすることは得意なので(あかん)、私はトイレにこもったままグーグル先生に
 
「ほしい物リスト 消える」
 
と検索をかけたりしていた。すると、実際にほしい物リストの商品を嫌がらせ目的で消すことが可能だという現実を目の当たりにする。
 
不安は増大する。
 
これは、、俺は被害にあった可能性が微レ存...(微レ存→微粒子レベルで存在する、の意味)
 
 
個人的な話になりますが、私はセンシティブです。
 
繊細なのです。
 
ちょっとのことで傷つく性格なんです。
 
わたしは引き続きトイレにこもったまま、「人生そんなに甘くない」と憂いを帯びておりました。
 
 
トイレの水を流し、トイレから出ると、居間のほうで弟がゲームで遊んでいるのが見えたので、とりあえず朝は「おはよう!」からだよな、と気を取り直し、居間の扉をあけるとなんということでしょう。
 
居間の真ん中に置いてあるこたつテーブルの上にドドーン!!と段ボール箱が置かれていました。
 
差出人はamazon...スウィーティー...
 
 
弟に荷物を受け取ってくれたことを感謝し、チャイム鳴った?と聞くと鳴っていたようで、ただ私が爆睡してたからチャイムに気付かなかっただけでした。
 
私は嬉しさのあまり弟に向かってこう叫んでいました。
 
 
「人生は甘々だ!!」
 
 
 
今日の教訓:
1.体裁を考えず、自分の欲に忠実になろう
「結局ほしい物リストは減らさずにむしろ増やした」
 
2.被害妄想は、ひとりで乗るジェットコースターのようなものだ
「波を楽しむ」
 
3.繊細でもいいじゃない
「繊細は諸刃の剣」
 
 
 
ここまでお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
 
そして、最後に私にシェーバーと電池を贈ってくれた方に感謝を述べます。
 
ありがとう。。。あいしてる。。。
 
 

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純粋でいたい。

自分の過去の文章を少し読み返していたら、なんだかとても小難しい印象を覚えた。あらま~。
 
いつからこんなに俺の頭の中は堅苦しくなったのだろう。
 
うーむ、できれば柔和でありたい。
 
今日はひさびさに坂爪さんとの出会いの記事を改めて読んでみた。
 
 
自分でいうのもなんだけど、ちょっと感動してしまった。
 
あの時の純粋な心は、今の自分にどれくらい残っているだろう。
 
「本当の純粋さは汚れた後に気付く」と坂爪さんの言葉を読んだ。
 
あれから二年、自分はけがれたのか。それとも純粋さを保ったままでいるのか。さっぱりわからない。

気持ちのゆきかい

それにしてもひとから物を贈ってもらえるととても嬉しいのは子供のころから変わってない。
 
まだ一桁後半だったかの年齢のときに父親の知り合いのひとからゲームキューブという任天堂のゲーム機を買ってもらったことがあった。
 
子供心にこんなに高いもの買ってもらっていいのだろうか、と思いながらも実際にそれをプレゼントされたときはとっても嬉しかった。
 
当時はゲームをすることが楽しくて仕方なかった。
 
年齢を重ねるにつれ、自分はなにをしてる時が楽しいのかよくわからなくなった。
 
 
慣れは飽きを呼ぶのかもしれない。
 
ただ、ひとつ子供のころから進化したかもと思えることがある。
 
それは、すべてのひととの触れ合いが新鮮に思えること。
 
少年時代には感じられなかった、「ひととのコミュニケーションから得られる充実感」が今はある。
 
たぶん、ひととの触れ合いは飽きることはない。
 
物をもらって嬉しいのは、その物の先にひとがいるからだと思う。
 
物そのもの以上に、それを自分に贈ってくれたことが嬉しくてたまらないんだ。

好きなひとができたよ

本音をいうと、自分はあまり人付き合いが得意ではない(好き嫌いがはっきりしてるのかもね)。
 
だからか、ちょっと初対面のひとと話したりすると、その瞬間には無理してるつもりはなくても、あとで家に帰ってからドッと疲れがやってきたりする。
 
ただ、この疲れには心地よさがあったりする。
 
ひととコミュニケーションをとったことで「やった感」が溢れ出してくる。
 
しかも自分の足でひとに会いにいくということ。会いたいひとがそこにいるから、という理由ひとつで、自分は行動をした。そのことが自分で嬉しくなる。
 
疲れてもいい、損をしたっていい、ただその先に会いたいと思えるひとがいるから、自分は進んでいくことができる。
 
子供のころの自分に向けて、いまの自分が誇れることがあるとすれば、きっとそれは「好きなひとができたよ」ってことだと思う。
 
純粋でいたいなあと思う。
 
子供のころの自分によく生きたねって言ってあげたい。
 
いまの自分はひとを愛するっていうことを少しずつ覚えはじめたよ。
 
今までの自分が純粋さを守り通してくれたおかげだね。
 
たまには自分自身にありがとうと言ってあげてもいいかなって思う。
 
これからも、よろしくねって、自分は自分を見捨てないよ。ずっと、ずっと。
 
 

感情は一時のものである。

私と弟が児童相談所にいたとき、兄弟喧嘩をしたことがあった。私が15歳で弟が13歳。文句のぶつけ合い、それに多少の取っ組み合いはしたかもしれない。私と弟にとっては兄弟喧嘩は日常茶飯事だったから、その日も普通に喧嘩して、それが終われば仲直りっていう感じだった。
 
その日の翌日、私はちょっと衝撃を受けることになった。同じ児相にいた中学一年生の男の子に「もう大丈夫なの?」と気遣われたのだ。私は最初、意図を理解するのに少し戸惑ったが、その子からしてみれば、前日には言い争っていたのに今日は平然としていることが理解できなかったんだと思う。
 
私的には弟との喧嘩はとっくに終わっており、なんならもう喧嘩していたことなんて忘れているぐらいだ。それなのに見る人からしてみれば、まだ「ケンカ継続中」。ケンカは言い争い(殴り合い)が終わったと同時に試合終了(仲直り)というのが私と弟にとっては当たり前だった。翌日までケンカが続くことなんて子供のころの自分たちには到底あり得ないことだったから、この出来事は今でも印象に残っている。
 
すぐに仲直りができる関係は本当に健全だと思う。10代のころまではその瞬間の自分の内側にある熱(本音や怒りの感情)を相手に対してぶつけることは何もおかしいことではなかった。
 
いつからだろうか、多分、20歳を超え始めたころからだろうか。弟とケンカすることは全くと言っていいほどなくなった。兄弟喧嘩でなくても、ある程度、大人になってくると人に対する鋭い言動は慎むようになってくる。ケンカ的なことをすることは正直意味がないし、口論などをすることによってのリスク(関係の修復にかかる時間や心労)を思えば、ケンカは避けたほうがどう考えたっていい。
 
と、そういうことを頭で考えることができてしまうというのが大人になってしまった証拠だ。頭でリスクヘッジを考えて、本当の思いは胸の内に隠す。これが人間関係において当たり前になってしまっていることに気付かない。
 
多分、「大人である」ということは「無駄を省く」と同じだ。無駄を省くほど窮屈になる。大人が不自由を感じるのは、無駄を省いてしまっているからだと思う。もっと無駄しようよ、と思う。
 
個人的には、恋人とちょっと怒りにまかせて本音を言い合ったりすることがあると、その瞬間はつらくても、後から振り返ったときに「あれは清々しかったな」と思える。
 
私はそういう本音を言い合えるような関係性が好きだ。相手に嫌われたくないがために自分の言いたいことを我慢していたら、真の関係性は築けないと思う。
 
自分の本当は隠しておきたい部分を包み隠さずに相手に打ち明けられること。お互いがお互いの弱い部分を受け入れ合って初めて「深い関係」になれるんだと思う。
 
何を言ってしまったとしても、そこに信頼関係があれば、最終的には許し合うことができる。どんなに酷いことを相手に言ってしまったとしても、水に流すのに時間がかからない関係性に私は絆の深さを見る。
 
やっぱり、言いたいことを我慢せずに本音を伝えていくことが関係性を深めていくと思う。真に深い関係に到達すると、すべてのやりとりがナチュラルになる。
感情は一時のものである。
「感情は一時のものである」と言いたい。私の偏見かもしれないが聞いてほしい。人は怒りの感情を抑える傾向にある。これは自然なことだ。ゆえに、稀に怒りの感情が表に出てしまったとき、人はそこから出た言葉を「本性」と見なす傾向がある。
 
怒りは抑えていた感情の表れだと思う。誰だって怒りは抱える。不健全なのは怒りを内に溜め込むことだ。「この人とは深い関係性を築きたい」と思う人がいるならば、多少は怒りが混じっても本音を伝えてみるべしと思う。
 
たとえ、その瞬間に怒りが二人を支配してしまっても大丈夫だ。どの感情もいずれは去る。地球が回り続けるように、太陽がまた昇るように、止まない雨はないように、すべては流れゆく。
 
感情とは一時のものだ。怒りの感情がずっとそこに留まり続けることはない。それならば、感情に支配されるのではなく、感情を流していこう。感情に意味はない。ひとつの感情に執着することなく、ただ、たんたんと生きていればいいのだ。
 
その先にさっさと忘れていく子供のころのような朗らかな自分がいるはずだ。

投げたものが返ってくる。捨てたら入ってくる。

投げたものが返ってくる。

残酷なことのように聞こえるかもしれないけど、何もしなければ何かが起こることはない。でも、何かをすれば、必ずそれは返ってくるのだということを最近の日々を通じて学んだ。
 
愛情を投げたら愛情が返ってくる。憎しみをぶつけたら憎しみが返ってくる。自分から自分を出していかなければ、誰かが自分を見つけてくれることもない。自分が変化を求めているのであれば、自分が変化になることだと思う。愛されたいなら愛するしかないと思う。

捨てたら入ってくる。

家の物を捨てると、それに応じて何かが入ってくるということをリアルに感じてきた。この前は敷物類を一式捨てた。断捨離もやるところまでやった感があったので、最近は特に家の中を改めて整理するということもなかったけど、久々にそのマットを捨てたのと掃除を念入りにしたら、ほしい物リストに入れていたプロテインが届いた。
 
そして、昨日の夜は彼女と買い物から帰ってきて、郵便受けを覗いてみるとまたもやamazon様からの封筒が投函されていた。私も「うお!」と喜んだけど、それ以上に彼女のテンションが高くなって笑った。藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』という本だった。
 
前々から捨てたら入ってくるというのはなんとなくあるなと思っていた。偶然のできごとを結び付けているだけかもしれない。それでも、やっぱり「捨てた隙間に何かが入ってくる」というのはあるなと思う。
 

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3月24日 - 他人に期待するのではなく、自分自身に期待する。

何か新しいことを始めたいという気持ちが溢れ出す今日このごろ。とりわけカラダを動かしたいという欲求が強いです。というわけで今日からランニングを始めてみました。とりあえず毎日20分走ってみようかと思っています。(雨の日は休もう)
大豆プロテイン
ついこの間のことですが、私がほしい物リストに入れていた大豆プロテインが家に届きました。急に家のチャイムが鳴るものだから、なんだろうまたN○Kかなとか思いながらドアににじり寄ると「ヤマト運輸でーす!」という声が響いてきました。すぐに荷物を受け取ると差出人がamazonになっているではありませんか! 私は「これは...!! ぜったいほしい物リストのやつや!」と一瞬で気分がハイになりました。「何が入っているだろう、わりかし箱がデカい」と意気揚々としながら箱を開けてみると、予想の斜め上をいく「大豆プロテイン」が私の眼前に現れたのです。
 
てっきり本だと思っていたので驚きもひとしおです。私は数年前から気分が乗った時期に限り、筋トレをやることを趣味としていました。最近も春が近付いてきたのとカラダ動かしたい欲求の再発により、数週間前から、筋トレを再開していたのです。ゆえにほしい物にプロテインがあったのです。
筋トレ - タンパク質の重要性
ちなみに今日は夜中に20分のランをしたのち、その流れのまま懸垂と腹筋を行いました。筋トレは、筋トレ直後などに効率的にタンパク質を摂取することが求められます。タンパク質を摂らなければ、いくら筋トレを頑張ったところで筋肉はつかないというのは経験則から知っていました。ササミなどでタンパク質を摂ることなどもできますが、やはりプロテインを飲むというのが何よりも楽で効率的です。
 
しかし、プロテイン(タンパク質)は地味に高いんです。私がamazonほしい物リストに入れていた大豆プロテインは1kg2100円でした。これでもかなり安いほうです。1杯20グラムと考えると、1kgでは50杯分です。エコノミックな事情により、プロテイン購入は断念していましたが、私は時代に恵まれたというものです。ほしい物リストのリンクをブログ記事の末尾に置いておくだけで、粋なひとからプレゼントが届くのです。最高ですね。
 
プロテインが手に入ったことにより、俄然筋トレのやる気が出ました。やる気の向上のおかげでランニングもしたくなる。まさに好循環です。
 
愛を受けて育つ。
私は「愛を受けて育っているな」と思うことがよくあります。いろいろな人の心遣いや、物をくれるなどの行為を通じて、私は「愛を貰っている」と思うのです。前に「批判をする人は愛情不足」ということを友人が言っていたのを思い出します。私は一人ひとりからの愛によって、徐々に内側にある芽が育っているような感覚を覚える。芽が育っていく感覚は前向きな気持ちを教えてくれる。前向きな気持ちでいられる限り、誰かを貶めるような言動は自分の中から自然と消滅していきます。
 
愛は行動を後押ししてくれるものです。今は自分をどう表現していこうかということを考えていると楽しくなってきます。
自分自身に期待する。
私は「他人に期待するのではなく自分自身に期待する」という言葉が好きです。私は「新しいことをやりたい」と思うとき、どこかで他人に期待している自分に気が付きます。「自分で何か新しいことを始めるといっても何も浮かばないな」、「もし誰かが面白いことをやっていたら乗っかってみたい」と潜在的に思っている傾向があります。しかし、こうした気持ちでいても新しい何かが始まったためしがないのです。
 
状況の変化はいつだって自分がきっかけでした。他人にどう思われるかは一旦置いておいて、自分はどうしたいのか。自分の「こうしたい」を優先した結果の先に、自分が望んでいた変化があったのです。
 
他人の「やりたい」に乗っかるだけでは、自分の「やりたい」が見えなくなる。他人のやりたいに乗っかるだけでは、その人を失ったとき、自分までも失う。誰がいなくても、自分がいる限り、自分の「やりたい」を追求できること。自分がやりたいことは、自分ひとりでもできることです。
 
 
運動は爆発だ!!