みっつ通信

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みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログです

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自分のままでいること。

最近思うことあれこれをまとめます。

"ふり"をしない。

元気のあるふり、忙しいふり、働いているふり、充実しているふり。なぜ、ひとは「人からよく見られるようなふり」をし続けるのか。もっと、自分のままでいてもいいじゃないかと思う。人からよく見られようとする限り(他人の評価を気にする限り)、結果的に自分は自分ではなくなっていく。もっと純粋に、「自分自身であること」が、"ふり"をすること以上にずっと自分にとって健康的なはずなんだ。

自分のままでいること。

自分が今まで好きになったひとはいったいどんなひとだったろう。自分が好きになったひとは、いつだって「その人のまま」であってくれるひとだった。"何か"があったから、態度を変えるようなひとを自分は好きになったことがない。それなら、自分はどう在りたいのか。自分は何があっても、自分のままでいられるような人間でありたいと思う。

自分の「好き」に敏感になる。

基本的にひとは他人が「いいね」と言っているものを「いいね」と言いたがる傾向にある。私は、他人が「いいね」というものよりも、自分が心の底から「いいね」と思うものに対して敏感になりたい。他人の評価を基準に自分の「好き」を決めてしまうことは、多分、自分を失うことと同じだ。自分は、何が好きか。私は、そこを力強く見極めていきたいと思う。

自分一人でなんでもかんでもしょいこまない。

自分一人で生きていこうとすれば、自分に関わるすべてのことを自分一人でやらなければならなくなる。それは、自立と呼ばれるものかもしれないが、では、自立とはいったいなんだろう。私にとって、自立とは「助けを求められること」だと思う。何のための他人か。一緒に生きていくための他人ではないのか。自分一人でなんでもかんでも背負い込むことで倒れてしまったら、それこそ本末転倒だ。「一人で生きていけるようになること」は素晴らしいことだと思うけれど、私はそれ以上に「いざというときに『ヘルプ!』と言えること」のほうがずっと大切なことのように思える。

友人が助けてくれるという確信。

私が好きな言葉のひとつにエピクロスの「われわれを助けてくれるものは、友人の援助そのものというよりは、友人の援助があるという確信である」という言葉がある。私は、最近不安になることが少なくなった。なぜだろうかと考えてみたら、それは、自分が窮地に陥ったときは「誰かが助けてくれるという確信」が胸の奥に光っているからじゃないかと思った。友人でも知人でも見知らぬひとでもいい、私は援助そのものよりも、自分がやばくなったときはきっと誰かが助けてくれるだろうというある意味で適当な「なるようになるさ精神」によって今のほどよい安心感を手に入れている気がする。

最終的なよりどころは「自分自身」である。

周囲の人間がみな敵だと思っているときは何をしていてもつらさを感じるが、周囲の人間がみな味方だと思っているとものすごく生きやすい。これは気の持ちようと言ってもいいのかもしれない。ただ、私は思う。仮に、自分以外のすべての人が敵になってしまったとしても、最終的なよりどころには「自分自身」がいると。誰より自分がいると。誰に何を言われようと構わない、最後の最後には自分自身という砦がいてくれる。

嫉妬について。

嫉妬というのは、多分、自分が行きたい道を先に誰かに行かれてしまっているからするものだと思う。嫉妬は何より道標になる。嫉妬することがあったら、「ああ自分は同じようにしたいんだな」と自分の気持ちをはっきりさせる。そうすると自分は何がしたいのか明確になってくる。私は嫉妬はチャンスだと思う。自分の「こうしてみたい」を教えてくれるからだ。

重きものは軽く扱え。軽きものは重く扱え。

細川幽斎の言葉だ。私は、生きる上で「重いな」と感じることがあったら、それを軽く扱おうと思う。これは「軽いな」と思うものがあったら、それは重く扱おうと思う。深刻さには「笑え」と、何でもない日々には丁寧さを。

いいことばかり!!

最近はほんとうに物を送ってくださる方が多くて、びっくりしています。ブログだけじゃなくインスタグラムのほうにも送っていただいたものをアップしていますが、載せきれていないものも多くあります。(物をもらうとアップしたくなる...)
 
先月は男性S様から(お会いしたことのないひと!!)コーヒーメーカーをプレゼントしていただいたんですが、コーヒーメーカーが届いたというタイミングでいつもお世話になっているM様から挽いたコーヒー豆が送られてきて、まさかの偶然に嬉しさを覚えました(コーヒー豆を買うお金がなかった)。そして、ついこの前そのコーヒー豆が切れそうだなあというときにM様に「コーヒー豆をどこで買ったか教えてくださいませんか」という質問をしたところ、グラスホルダーを送るのに合わせてつなぎでまた同じコーヒー豆を一袋送ってくださるということに。それだけでも充分ありがたいのに、さらには「次の分は私が出すよ」という一言ともに私が今度買おうと思っていたコーヒー4袋分の代金2500円をダンボール箱に詰めて送ってくださいました。
 
 
(イェス! コーヒーメーカー!)
 
からの! M様に「ほしいものリストにコーヒーを入れておけばみっつさんの文章に心打たれたという方がコーヒーを送ってくださるかもしれないよ」という助言をいただいたので、「それでは入れておこう!」と、ほしいものリストにコーヒーを入れておいたら、なんと! M様からの「荷物発送しました」という連絡の3時間後に、私を以前東京スカイツリーにつれていってくださった方から、「たくさんの気づきを与えてくれた素敵なブログへのほんのお返しです♡ コーヒーぜひ贈りたい♡」という連絡が!! ほんとうに神様ばかりです。
 
最近は、物をもらうと如実に生きる気力が湧き出してきます。物自体ももちろん嬉しいんですが、物を送ってくれるその気持ちに私はなんだか「愛をもらっているなあ」と感慨深くなります。
 
 
思えば、私は「自分のままでいよう(無理に何かを頑張るのではなく力を抜いていつも通りでいよう)」としてきたからこそ、こういう嬉しい出来事が起こっているんじゃないかと思うようになりました。もし、無理に自分ができないことをやろうとして疲弊したりすることを繰り返していたら、こういう風に「ひとから物をもらって嬉しいなあ」という気持ちになれることはなかったんじゃないのかなと思います。自分の頑張った行動の見返りに、「物や金品を貰う」という『等価交換』が当たり前になっていたとしたら、「もらって当たり前!」ということになっていたような感じがします。
 
 
送ってくださる方はほんとうに一切の見返りもなく(少なくとも私はそれを強く感じる)、ただ純粋に「送りたい」という気持ちから送ってくださっているように感じます。私はいま、何かを得るために頑張っているという感覚はありません。だからこそ、何かを貰ったりすると、ただひたすらに嬉しくなります。本当に「貰っている」だけです。何の見返りもなく、ただ純粋に送ってくれる行為が嬉しくて嬉しくて仕方ありません。
 
先月も、私と弟にタンブラーを送ってくださった女性O様(女神よ!!)が降臨いたしまして、そのタンブラーが届いた瞬間は、あまりの嬉しさに弟といっしょにガッツポーズをしてしまいました。その上、後日、タンブラーのフタと底につけるカバーを送りたいとおっしゃってくださり、私はわくわくしながら待っていました。そして、その荷物が届き、「きたー!」と弟と二人でダンボール箱を開けてみると、なんということでしょうか、私の恋人分のタンブラーがフタと底カバーとのセットで入っていました。それだけでも感動しているというのに、なんと、エビスビールが6缶も入っているというから昇天ものです。
 
 
(神はいる......)
 
私は、貧乏性的なところがあるのか、つい貰い物をいただくと、いったいこれの総額はいくらになるんだろう...と軽く計算をしてしまいます。そして、簡単に計算を終えて、「ああやばい...たかい、これはたかい」という心情になります(送料もばかにならないはず)。そして、値段どうこうより、ただひたすらに「送ってくれた」という事実に猛烈に嬉しさがこみ上げてきます。
 
あらためてこういう風に文章にすると、今まで何を貰って、どれだけ嬉しかったのかということを延々と書いてしまいそうです。(もっと書きます!)
 
4月末は坂爪さんが主催する「わたり食堂」へ行ったのですが、実をいうと交通費は自費ではなく(思えば熱海へ行って自費だったのは一度だけだ)、3月のわたり食堂で初めてお会いした女性A様が出してくださったのです。A様は麗しい方でありまして、坂爪さんの生誕祭のイベントがあった日 (4/7) に「今月末のわたり食堂にはこられないんですか?」と私にお聞きくださったのですが、「私は今月はちょっとむずかしいかもしれません...(交通費がなかった)」と答えたところ、後日、A様からこのようなメールをいただきました。
 
次回のわたり食堂には来られないと思う、とのことでしたが、もし、、、
もしですよ、、、
熱海までの往復の旅費をお贈りします、と言ってみたらご検討されたりしますでしょうか??
そして、もし、、、
もしですよ、、、(シツコイ、笑)
彼女さんもご都合つくようでしたら彼女さんもご一緒にいかがです??と言ってみたらそちらもご検討されますでしょうか??
(↑こちらは彼女さんが、ですが。)
もしすでに別のご予定があったり、気分じゃないのであれば仕方ないのですが、、、


わたしが個人的にわたり食堂にみっつさんがいたらいいのにー、と思っているだけなので(みっつさんがいると落ち着くんです。)、みっつさん自身のココロがいきとーない、というのであればその声を優先されてください😉✨
 
 
ふと思いご連絡してみました。
ではでは。
みっつさんと彼女さんに幸ありますように✨✨✨
お祈りしております♡
 
私は胸がじんわりとあたたかくなりました。当然行きますよ!!! 4月中旬に坂爪さんの「ごちゃまぜの家」の菊名の物件を内覧しに行ったんですが、その時に二人分の交通費をお渡ししてくださって。結果的に私たち二人は熱海へ行くことができました。A様には感謝してもしきれません。本当によい思い出となりました。
 
 
こうして文章を書き綴っていると、起こったこと全部書きたくなってしまいます。多分、貰い物だけでも、この三ヶ月間で、15回以上は貰っているし、私が会いにいった人たちからも「これは活動の足しに使ってください」とそれなりの額のマネーをいただいています。
 
あらためて振り返ってみると、「いいこと」ばかりです。人生嘆いている場合じゃないです(結局嘆く)。本当にここ最近は何度「ありがとうございます」と言っているのか。これだけ多くの感謝する機会をいただけて、本当に「ありがとうございます」という言葉しか出てきません。
 
 
わたくし、もっと生きます!!!
 
いつも生きる気力を与えてくださるお一人お一人に感謝の気持ちを!!!
 
ちなみにですが、私に物を与えてくださった方々には実は特典が自動的に付与されておりまして、もし、直接会う機会がありましたら、いくらでも肩揉みをさせていただきます!!! もちろんご所望とあれば背中でも足でもどこでもマッサージいたします!!!(10分くらいでバテたらすみません!!!)
 
というわけで、ありがとうございます!!!
 
それでは、またいつか!!!

怒りについて。

思えば、行動を起こすこと自体に満足はしてきたけれど、これは素晴らしい出会いだと思える人との出会いは限りなく数少なかった。多分、よほど自分との相性がいい人との出会いでない限り、どうコミュニケーションにおけるテクニックを駆使したところで疲労するだけなんだろう。
 
最近はいろいろ思うことがある。少しくらいブログにまとめれば多少は元気が出るのかなと思い、メモ的に書いてみようかと思う。

「いい人」とは、「いい人に出会えていない人」のことである。

よくあの人はいい人だ、という表現を耳にするし、自分自身も「いい人だ」という言葉は使う。でも、いい人ってなんだろう。大した魅力を感じない人を指して、いい人という言葉を使って、その人のことをカバーしようとしているだけな気がする。多分、「いい人」と言われる人は、「(それこそ)いい人に出会えていない人」のことを言うのだろう。

自分を出すとは、半端ないくらいの丁寧さを要する。

自分を出すとはなんだろうか。自分を出すとは、決して怒りや負の感情をぶちまけることではない。怒りなどこの世には不必要だと言っても差し支えないぐらいの感情だ。思うに、「穏やかでいられること」には最高の価値がある。多分、自分を出すとは、いかに「冷静に物を言えるか」なのではないか。穏やかであろうと努め、冷静さを保ちながら、自分が思ったことを優しく言う。自分を出すとは、たいへんに難しいことだと思う。でも、私は諦めずに、自分を出していきたいと思っている。

他人の顔色を伺っていても停滞するだけだ。

大切なのは、人のご機嫌を取ることではなく、自分自身のご機嫌を取っていくことだ。他人の顔色を伺ってまで自分のやりたいことや言いたいことを押し殺すくらいなら、何にもしないほうがマシだ。根本的に「ひとの気持ちを決めつけないこと」。「嫌われたと思い込まないこと」。傷ついてもいいという覚悟を持って、人と接していくこと。傷ついたら傷ついたで終わりにする。一回一回、終了のホイッスルを吹くことが、新たなスタートを生む。

前提として、「人のことはわからない」。

人のことはわからない。人の気持ちをいくら想像したところで、それは、自分自身の気持ちを膨らませているだけだ。相手だって、自分自身の気持ちに戸惑っていたりするものだ。自分自身だって、ほんとうは自分の気持ちがいったいどうして、「このように」なっているのかわからない。すべてに対して言えるのは、「何にもわからない」ということだ。

正義感を押し付けない。

正義感を押し付けるために何が必要になるか。それは、往々にして「怒り」だったりする。果たして「怒り」が人を動かすことがあるのだろうか。人が怒っている姿を見るのは悲しい。自分自身に暴力を振るっているようにさえ見えるくらいに。他人を大切に扱えない人は、自分自身をぞんざいに扱っている。

怒りについて。

怒りの感情は、まず「やり過ごすこと」だと思う。怒るということは毒を飲むようなもので、自分の中に毒を持ちたいわけでもなければ、怒ることには何の意味もない。「怒り(イライラ)」は、多分、他人に期待している証拠だ。怒らずにいられること【自分を馬鹿にしないこと】には、最高の価値がある。怒りは、「変化を望んでいる状態」でもある。変化を望む対象が“他“であれば、怒りは継続されるが、“自“であれば、何かを変えることができる。自分はどうしたいのか。まずはそこからだ。

我慢について。

心の濁りは我慢をしている証拠だ。我慢は美徳も何もない。我慢は、人の心を不透明にする。我慢は、内側に負の感情を溜め込む。負の感情が溜まれば、人は病気になる。基本的に何事についても言えることだと思うけれど、とにかく「思ったことを正直に言うこと」は人を軽くさせる。

愛するということ。

愛するというのは、相手の好きなところも嫌いなところも全部受け入れるということだと思う。相手の言動が自分の望んだ通りでなければ、相手のことを受け入れられないなんて、あまりに幼児的だ。大人になるということは、誰も自分の思い通りになんてならないんだと気付くことだ。すべてが自分の思い通りになったら、つまらなすぎる。愛するということは、自分が好きだと思った人間のことを少しずつ知っていき、その上で見えてきた相手の嫌いな部分も受け入れていくことだ。「愛する」とは簡単に口で言えても、人を愛するということは本当に難しい。それでも、私は人を愛していきたいと思う。

「信頼」と「待つこと」は切っても切れない関係にある。

相手に言葉を紡ぐ時間を与えること。相手に思考する時間を与えること。人の話を遮ることが相手に対しての冒涜に近いように、「待てない」ことは相手を蔑んでいるようなものだ。まずは「待つ」ことだと思う。「待つ」という行為は、相手を信頼している証になる。

自分をまじめに生きる。

どうも、言わずと知られない一日の食費150円のみっつです。厳密には食費と日用品込みで月一万円でやりくりしています。ちなみに私と弟二人分で一万円です。というわけで、一人あたりの食費が一日150円です。そんなエコノミックな事情はあれど、最近はもっぱらおしゃれに興味を持っている私です。ありがとうございます。本日、いつもお世話になっている方から雪駄のプレゼントがありまして、自分でチョイスさせてもらった雪駄だったんですが、想像以上にかわいくて久々に「これを買って(もらって)よかった!」と思えました。
 
 

もらった雪駄が可愛すぎてテンションあがりまくり。天板はデニム生地。

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最近はTwitterのほうでよくつぶやいているんですが、うーんなんでしょうか、Twitterのほうだと真面目にツイートしちゃうんですよね。きちんと言葉を選ぼうとします。それでも、おもしろいからいいんですが、やっぱりたまには適当に(でもスマートに)文章を書きたいなと思いまして、こうして指が流れるままにブログを更新しています。(一日のページビューが1でも俺は書く。そんな気概を忘れずに生きていきたい)
 
私は性格的にすぐに精神の荒波に飲まれてしまうタイプなんですが、そんな自分を律するには「考えること」が案外自分の役に立ったりします。さいわい弟と二人暮らしなもので、夜な夜な弟ちゃんには話し相手になってもらい、普段考えているいろんなことを聞いてもらっています。そういえばこの前ネットで見た言葉のひとつに「人格は聴く姿勢に現れる」とありました。その点、弟ちゃんはたいそう人格に優れているのでしょうが、反面、私といえば......内省ばかりの日々です。
 
5月の合言葉は「全部笑い飛ばす!」とこの前書いたんですが、合言葉は月にいくつあってもいいじゃない!の名のもとに私はもうひとつの合言葉を考え出しました。その合言葉とは、「人の話をじっくり聴く」です! ありがとうございます。
 
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そんなこんなでいつも前置き的な何かを書いていると調子に乗っちゃって、なかなか本題までたどりつけなくなるんですが、今日は最近考えていることあれこれ的なことを書きたかったんでした。閑話休題。最近思ったことをここに少しまとめておきたいと思います。

1. やめる勇気。

やめるには勇気がいる。やめるのは超怖い。やめなければ、なんとかやっていける。でも、やめなければ、本当の次なんてこない。だから、どんなに怖くてもやめてみるのだ。

2. 人とのベストな距離感。

人との距離感は「つかず離れず」ぐらいがベストなんだと思う。どんなに仲が良い人であっても、距離が近づきすぎると衝突してしまう場合がある。人付き合いの中でのコツは「適度な距離感を保つこと」で、その人に会ったときにいかに新鮮な気持ちになれるかが重要なポイントだと思う。

3. 自分の純度を高めてくれるもの。

やりたいことをやりたい時にやる。会いたい人に会いたい時に会う。言いたいことを言いたい時に言う。行きたいところに行きたい時に行く。

4. 「惚れる」とは。

相手の中に自分を発見する。それが惚れるっていうことさ。

5. したくないならしないでいい、したくなったらすればいい。

何もしたくないときは何もしなくていい。何かしたくなったら何かすればいい。そう割り切ることでだいぶ清々しく生きられる。

6. 自分をまじめに生きる。

「まじめに生きる」とはなんだろうか。まじめに生きると聞くと、まるで「他人にまじめに生きていると思われるように生きること」のように思えてくる。これは違うと思う。まじめに生きるとは、「自分をごまかさずに生きること」だと思う。他人にまじめに思われるような生き方をするのでは、自分の人生は他人に委ねられることになる。自分が大事だと思うのは、自分が自分の生きる道にYESと言えるかどうかだ。「自分はこのまま行く」と腹から思えたときに初めて、自分をまじめに生きているということになるんだと思う。
 
 
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ミキサーを送ってくれた方、ありがとうございます......嬉泣
 
 

ミキサー届いたー!!嬉しいー!!

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でも、生きてる。

おはようございますこんにちはこんばんはみっつです。暇すぎて退屈しています。いきなりですが「暇ほど毒なものはない」ということわざを知っていますか。私はさっき知りました。あまりにも暇だったもので、「暇」について調べていたんです。もともと暇なときは「小人閑居して不善を為す」ということわざが頭をよぎるんですが、今日はとうとう暇さも限界を迎えたのか、ついに「暇ほど毒なものはない」なんてことわざに出会っちゃいました。
 
ことわざといえば、最近はなぞに「衣食足りて礼節を知る」という言葉が何度も頭を繰り返しよぎっています。なぜでしょうか。私にも理由はわかりませんが、多分、「衣食"住"じゃなくて、"衣食"さえ足りていれば、礼儀をわきまえられるんだ」というなぞの気付きに感動していたからでしょう。ほんとうに暇だと考え事しかしませんね、私は。
 
そうだ、感動といえば、最近私は自分があまり何かを見て感動したりということが昔と比べてだいぶ少なくなってきているんじゃないかと気付きました。5年前の私だったら、映画を観て泣いたでしょう。それにサッカーを観たりしても大興奮という意味では、もはや心が感動しっぱなしでした。ですが、今の私はいったい何に感動を覚えているのか。
 
実は、この前私感動したことがあったんです。最寄り駅の改札を出て、階段を下りていると、自分から見てやや下のほうに階段を下りている女性がいました。その人を一目見たとき、「ああ、背筋がまっすぐ伸びてて凛としているな」と思いました。そこでよく見てみると、その女性はどうやら手すりを持って階段を下りているようでした。女性が階段を下りきり、舗装されたコンクリートの上に歩き出した瞬間、私は女性が何か棒のようなものを持ち、それを前に突き出しながら歩いていることに気付きました。
 
すぐに私の視野の死角に入ってしまったので、ちょっと早歩きで私は階段を下り、もう一度その女性を見てみると、どうやら視覚障がい者の方のようで、まっすぐ前に突き出した棒の先端が地面に触れない程度のところで、その棒を左右に一定のリズムで振りながら歩いていました。私は時間にして30秒ほどだったでしょうか、その人に見とれていると、その女性は建物ぎりぎりのところまで歩き、棒の先端に草や何かが触れたら、向きを90度変え、またまっすぐ歩き出します。棒を振りながらといっても、そんなに大きく振っているわけじゃありません。なので、小さな横断歩道の前にあったポールに右半身をぶつけていました。車の音は耳で聴き取っているはずです、そのまま横断歩道を渡り、壁際まで歩いてまた向きを90度変え、その女性は歩いていきました。
 
私は不思議とその光景に猛烈に感動しました。ちょっと追いかけたいと思ったぐらいです。私はすぐにコンビニに入ってしまったので、ほんの30秒ぐらいの光景です。たった30秒で私は本当に感動し、勝手に「力強く生きよう」と思いました。
 
 
私は暇だ暇だとか言っていますが、でも、生きてる。それだけで充分なんだな、生きているという事実だけで誰かを勇気付けることもあるんだなと思いました。
 
今日はこんな言葉で締めくくりたいと思います。
 
「あなたが何をしていようが、あなたが生きているという事実に私は応援される」
 
ありがとうございます。感謝することはイコール幸せだなと思う、みっつでした。さようなら。