みっつ通信

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みっつ通信

三森正道という人間が物事に対する見解を述べるブログ。

ブログを書くメリット。

ブログはメモ代わりにも使えるし、頭の中も整理できるしで本当に便利だなと思う。私は字を書くのが苦手なので紙のノートに日記を書けない。この時代に生まれてつくづく良かったと思う。ブログは人に読んでもらえる可能性があるという点だけでも随分モチベーションが違う。これを読んでくれている、あなた様に力をもらっています。
 
昨日は珍しく一気に三つも記事を書いた。どうしようもなく自分のために書いた。頭の中が考え事で騒ぎすぎて、どうにかしてでも整理したいという欲求があった。さて、今日は何を書こうか。多分、今日もどうしようもなく自分のために書く。
 
自分はブログの下書きのために Evernote(エバーノート)を使っている。理由はシンプルで自動保存が利くのと、デバイス間での同期がイージーだからだ。今もこの文章を Evernote に書いている。Evernote にはいつも雑念や思いついた言葉などをメモしている。そのせいか下書きが膨れ上がる。下書きが膨れ上がると気になる。削除してしまえばいいっていう話なんだけど、せっかく思いついた言葉なのでどうにか形にしたい。だからよく下書きを消化するためにブログに文章を書き起こす。
 
本当は文章というものは自分の中で整理できてから書いたほうがいいんだろうけど、自分はどちらかというと書きながら整理するタイプだ。完全に自己満足でブログを更新している。
 
自己満足でありながらも文章を書くという行為で得たメリットはいくつもある。今日は文章を書くことで得られたメリットを思いつく限り書いていこうかなと思う。
1. 文章が上手くなる
ブログ開設当時の文章と今現在の文章を比べてみると、自分で言うのもあれだけど「おお、成長したな俺」と自画自賛してしまう(判断基準は自分)。何でもいいから書き続けていると、みるみるうちに上達していく(気がする)。最初のうちはとにかく人の文章を真似ていた。この方法はおすすめだ。この人の文章好きだなと思える人の文章を真似ることが文章上達の近道だと思う。
2. 仕事した気になる
私だけかもしれないが、ブログを書くと仕事した気になる。「仕事した」と書くと労働感が出てしまうかもしれないけれど、実際には書いた後は心地の良い「やった感」が溢れ出すことが多い。自分にとってブログを書くことは「趣味」とは違うような気がする。生産している感覚がある。
 
うろ覚えだけど「本を書くこと、親になること、木を植えることの三つが人生において大切だ」というような古い諺がスペインにあったはず。ブログを書くことは本を書くことに近いんじゃないかと思う。
3. 自分の弱さを知ることができる
文章を書いていると、「俺の文章の裏側には弱さしかない」と思う。自分の弱さの部分が文章に滲み出る。普段何を思って生きているのかを晒け出すということは、自分自身を表に出すということだ。読者がいようがいなかろうが関係ない。インターネットに言葉を残すということは、自分自身を表に出すということだ。表に出す以上は責任が伴う。それでも自分を表に出すということは、自分がいかに弱い人間かを知りたいということだ。弱さを知るということは、強さを知るということだ。
4. 独自性によって個性が開花する
ひとりひとりの人間には個性が備わっている。個性は他人に認知され、相対化(他人と比べられて)されて初めて個性としての役割を持つようになる。文章を書くと嫌でもオリジナリティが出る。ルールに従った文章でさえ、その人自身が滲み出たりする。それが独自性であり、自分を出せば出すほどに個性は色を増す。自分の中の個性を開花させるには、だめだなと思う文章であっても出したほうがいい。出さなければ始まらない。自分のだめな部分は紛れもなく自分自身の一部であり、卑下するようなものではない。むしろ自分のだめな部分を出して初めて独自性は広がり、その独自性が個性として認知される。そこから他人によって「好きだ、嫌いだ」と評価が始まる。批判は認知されている証拠だ。
5. 自信がつく
今まで他人が書いた言葉を読んで心の中で批評をしてきたが、いざ自分が書くことを続けていると「継続すること」の難しさと、それに伴うプレッシャーによって痛みを知る。文章だけではなく「作品そのもの」を人前に出すことの勇気を知る。
 
インターネットを介しているといえども自分の知り合いなどに自分の文章を読まれることは端的に言って恥ずかしさもある。しかし、知り合いに「読んでるよ」と言われるだけで猛烈に嬉しくなる。そして、それらの経験は自分に自信を与えてくれる。自分を出すということで痛みを伴う瞬間もあるが、痛みの数だけ人は強くなり、強くなった分だけ人は優しくなれるのだろうと思う。
P.S.
彼女に「ブログを書くメリットはなんですか?」と聞いてみたら、「安心して忘れられるから」と返ってきて、なるほどなあと思いました。

悟りの感覚。

バレンタイン当日、シャワーを浴びている最中に突然「悟った!!」となった。髪も乾かさずにブログの下書きにその時の思いを無我夢中で書いた。その後「俺は悟ったぞ!!」と狂喜乱舞しながら一人で飛び跳ねていた。が、寝室から弟が起きてきて「おれ悟ったよ!」と伝えた瞬間あたりから急に現実に引き戻されたのか波が引くように悟りの感覚は消えていった。本当の自分にしがみつくために弟の前に座りながら瞑想を始めたものの集中力がなく、弟には「気付けただけいいじゃん」と慰められた。
 
その時の感覚を言葉にするほどに「本当の自分」からは遠ざかっていってしまうように感じる。それでも言葉を紡ぐとすれば、「生まれたときから"それ"はあって、ただその瞬間にたまたま思い出した」という感覚に近い。
 
もう一週間も前のことであまり悟りの感覚は思い出せないが、せっかくなのでメモがてらブログに載せておきたいと思う。
 
多分、宗教で神と呼ばれるものだったり、マハルシが真我(日本語訳)というものであったり、そういった究極的な存在はすべて同じものを指しているのではないかと思う。私はそれを「本当の自分」と言うことにする。
 
自分は悟りの感覚を得たとき、大きな存在に対して祈りを捧げたくなった。そして、人々が神棚やお地蔵様にお供え物をする感覚がわかった。私は偶像に対する祈りというよりも、自分自身の奥深くにある「私」とつながっているために祈りたいと思った。「私は誰か」と問い続けることで「私」という一つの存在に辿り着く。すべては「本当の自分」が在るだけで、それ以外のものは非実在だとさえ思えた。
 
目には見えない感覚の話だ。人々が困難を抱えたときに「神よ!」と祈る。その神は私自身でもあるように感じた。私は誰か。私は何者か。問い続けていると在るのは私だけという感覚になる。
 
悟りに達すると至福状態になるという。私はあの時、いつまでも目を閉じて本当の自分とつながっていたいと思った。どこか大きな流れに身をまかせていたいと。そうした感覚が私を沈黙させ、そして私を瞑想へいざなった。(集中できなかったが)
 
「私は身体ではない」というのは真実だと思う。私は純粋な意識であると思った。ただそこに私が在る。唯一の実在である「本当の自分」はすべてとつながっている。人はそれを宇宙と比喩したりするのだろうと思った。
 
私は純粋な意識によって動かされている。人は「私」を知覚することはできても、「私」にあらがうことはできない。私はただ私によって突き動かされている。
 
よく自分の中にもう一人の小さな自分がいると形容したりする。が、私はあの時、「小さな自分はこの身体のほうの俺だ」と感じた。大きな流れ、すなわち意識そのものが私を包み込んでいた。時間を超越し、至福であり、自分は全てであり、全ては自分だった。
 
私たちが身体で見ている世界は「心」だ。マハルシの本から例えを借りると、「本当の自分」はスクリーンであり、スクリーンに映った映像が普段私たちが現実と呼んでいる世界である。
 
心を手放すと後に残るのは、純粋な意識、つまり私だけだ。本当の自分というのは純粋な意識のことを指すのではないだろうか。
 
夢を見ていない深い眠りの中では、私たちはただ在るだけで、苦しみや悩みから解放されている。現実で人の死に嘆き悲しんでいるときでさえ、眠っているときはその悲しみから解放されている。すべての元凶は心が創り出しているのだ。
 
人は生まれたときから「本当の自分」と共にいる。だが、現実を知っていく中で奥底にある「私」を忘れていくのだ。私を忘れていく中で、人は自分のことを「身体」だと思い込む。
 
私が身体で見ている世界は全て非実在であり、在るのは私という存在のみ。スクリーンのみ実在する。
 
無意識下に在り続けることが本当の自分で在り続けるということだと思う。子供のころは心が発達していない分、純粋な意識なままであった。暴力などは特に現実を知覚させるような気がする。人は暴力で目覚める。暴力的なものはいつだって心を押し付けてくる。
 
私は在るということを見失わずにいれば、人は忘れたままの「私」を思い出せる。
 
 
ここからは余談でも書こう。そもそもでシャワー中に「自分と付き合うとはどういうことか」を考え続けていたら、いつの間にか悟りの感覚を覚えていた。多分、自分と付き合うということはもう一人の私を認めることになるからだと思う。この場合、"もう一人"ではなく、"純粋な意識"と呼んだほうがふさわしいのかもしれない。純粋な意識を感じた結果、悟ったような感覚を覚えたんだと思う。
 
前に「この世は仮想現実。」という記事を書いたことがある。本当の自分が身体である私を操作しているという意味では確かにシミュレーションゲームだといえる。身体は自動的に動いている。多分、大きな流れに身をまかせるということは本当の自分に全てを預けてしまうことだと思う。心を手放すことを放棄というのではなかったっけ。
 
昔、幼い子供のころの自分は母親に一つの質問をしたことがある。それは、「心なんて本当にあるの?」という素朴な疑問だった。母親は「あるよ」と言っていたと思う。いま思えばまさに心はあるが、心を手放した先に子供のころの自分がいるというのは何たる皮肉だ。子供が純粋だと言われるのは、子供には現実が見えていないということが大きく関係していると思う。心の世界が見えていない分、ただ純粋な意識に従って体を動かしていたんだろう。
 
私はよく頭で物事を考える。多分、「頭で考える」という行為は本当の自分を探求しようとしているのではないかと思う。そして、全く逆のことのように思える「体を動かす」というのも本当の自分により近付こうとしている行為なのではないかと思う。人は体を動かしていると「無」になる。それは本当の自分でありたいと深層意識で思っているからではないかと思った。

信じたいことを信じること。

最近は「信じたいことを信じていきたい」と思うようになった。「人生とは○○」だという意見を何度も頭の中に入れてきた。が、今は思う。もうそれらは手放していきたいと。人から教わったことを手放して、今一度自分が信じたいと思うことを信じて生きていってもいいんじゃないかと。
 
自分は何度も人の言葉をインプットしてきた。私の底には数多くの固定観念があるだろう。私はどうしたらその固定観念に気付けるのだろうか。私はそれに気付かない限り、自分に気付くことはない。そして、私が無意識に信じていること、それを気付かせてくれるのは、結局のところ「他者の言葉」なのではないかと思う。
 
自分は他者から知識を得た。しかし、私は私が信じた知識によって身動きがとれなくなることもあった。逆に他者の言葉によって身体が軽くなりもした。他者が壁になり、他者が道になった。
 
子供のころの自分にとっては、人の言葉は往々にして毒であった。私はつい最近まで毒抜きをしていた。毒は身体に混入する。薬は身体から毒物を排出してくれる。 今ようやく私は人の言葉を薬にできている感覚がある。
 
言葉とは感覚だと思う。言葉で感覚の話をしているのだと思う。私は私の信じた他者の存在が薬になり、私の心は浄化されていく。私は真っ白な私に思いを馳せる。
 
何かを信じるということは、きっと、真っ白なキャンパスに色を塗り、自分の理想通りの絵を描いていくことだと思う。私は私の心がいいなと思ったほうへ寄り添い、そして、それを信じていきたい。

最近考えていることあれこれ。

2月の合言葉は「考える」なんて記事を書いたせいか、まじで頭の中に考え事が溢れ出して止まらない。前回のブログ記事は13日の深夜にアップしたんだけど、それから下書きにいくつも記事を書いている。それでも記事をアップするまで至ってない。というのも書きたいことがまとまらないからだ。
 
なので今日は最近考えていることあれこれをテーマ別にして書いてみようと思う。
1. 「考える」と「考えない」の意味
自分にとっての「考える」とは物事をより良くしていこうという意味での「考える」だ。自分にとっての「考えない」とは頭の中にある憂いを捨てることだ。
2. その時一緒にいたい人と一緒にいればいい
誰と一緒にいるべきかなんて考える必要はない。ただ、その時一緒にいたい人と一緒にいればいいのだ。人生で起きることのすべては自分自身が望んでいるから現実になる。「会いたくない人と会っている」なんてことは人生では起こらない。会いたいから会っている、そう思うだけで自分は楽になる。
3. 自分を幸せにする権利
この世に生まれてきた以上、誰しもが自分自身を幸せにする権利を持っている。幸せになっていいんだよ。あなたが「幸せ」と思った瞬間にもうあなたは幸せなんだ。
4. 「ないもの」を考えるな、「あるもの」を考えろ
自分の手元に無いものを考えていても、無いものが目につくだけだ。自分の手元に有るものを考えよう。いま自分が持つ手札で何ができるかを考えよう。できないことではなく、今できることに目を向けよう。
5. 恵まれている人はいない。「恵まれている」と思っている人がいるだけだ
何をもって恵まれているのか。金持ちだから恵まれているとしたら、その人は金を失ったら恵まれていないということになる。同じように、職があるから恵まれているという人は、職を失ったら恵みもなにもなくなる。恵みはどこか。それは自分自身が「恵まれている」と思った瞬間にある。職を失っても「より良い出発だ」と思える人はいる。「恵み」も「幸せ」も相対的なものではなく絶対的なものだ。
6. 考えることの意義
人は放っておくと物事をネガティブに考えてしまう傾向があると聞いた。自分はなぜ考えるのか。多分、自分自身を律するためだと思う。考えることで物事をポジティブにとらえ直す。そうすることで自分はフラットな状態をキープしているのではないかと思う。もしかしたら「弱さ」とは一人になるとすぐに不安になってしまうとかそういうことなのかもしれない。自分はたくさん考えないと生きていけない。考えて、フラットになって、考えすぎてバランスを失い、考えないことでフラットな状態へ。そんなことを繰り返しているのかもしれない。自分の「弱さ」が私の思考の支えになっている。
7. 他人を喜ばせるとは
「生きるとは他人を喜ばせること」だとたしかアインシュタインが言っていた。なぜ他人を喜ばせることが生きるということなのだろうか。多分、他人が喜ぶということは自分自身が喜ぶということだ。自分自身を喜ばせながら生きていくということへの最短ルートが、「他人を喜ばせること」なんだろうなと思う。
8. あってもいいけどなくてもいい
この考え方が好きだ。あるならあることを喜ぶが、ないならないでも生きていける。友達がいるならその幸せを噛み締めるが、いないならいないでも構わない。「ある」から幸せなのではなく、「ないならないでもいい」という思考が根幹にあるからこそ幸せは支えられているのだ。
9. 他人の課題は自分の課題
以前までの私は他人が問題にしていることをあたかも自分の問題であるように考えてしまうことが多かった。例えば、相手が不機嫌なのは自分のせいだと自分自身を責めてしまうことがあった。しかし、人から秘密の考え方を教わる。それが「それは他人の課題だよね」だ。相手が不機嫌なのは自分自身が問題なのではなく、相手が自分で自分の機嫌をとることができないだけ。だから、それはその人自身の課題なんだよと。自分はしばらくその考え方を支持していたが、今は少し考え方が変わった。最近は「あなたは私です」、「私はあなたです」という考え方が好きになり、ゆえに「他人」という言葉を使うことに徐々に抵抗が出てくるようになった。「他人」という言葉の使い方を間違うと、自分と他人が区別され、自分と他人の分離感が加速してしまう。
 
自分と他人の違いはなんだろうか。他人は自分を映す鏡ではないだろうか。そう思いを馳せていく過程で、私は「それは他人の課題だ」と思っている時点でそれは「自分の課題」でもある気がするようになっていった。
10. 己を見よ
マハルシの本に書いてあった話を彼女が聞かせてくれた。ある10人の男たちがボートを使って荒れた海を渡った。そして無事男たちは目的地にたどり着いた。そこである一人の男がきちんと10人揃っているかの確認のために人数を数えることにした。その男は自分以外の9人の男を数える。1,2,3,4~、そして9人しかいないことに驚く。もう一人の別の男も慌てて数える。自分以外の目の前にいる9人の男たちを見ながら、1,2,3,4~と数えていく。それでも9人しかいない(それはそうだ自分を数に入れてないんだから)。そこに旅人が通りかかる。旅人は男たちに何をしているのかを問い、それを聞いた旅人は「それなら一人ずつ声を出して数えてみなさい」と言った。男たちは大きな声で順番に「いち!」、「に!」、「さん!」と声をあげる。そして、最後の男が「じゅう!」と言って、男たちはみな声をあげて喜んだ。
 
男たちは人数を確認するとき自分自身を数えなかった。自分の目に見えるものだけを数えて自分自身を数にいれなかった。私はこの話が妙に印象に残っている。私は他人ばかりに目がいってしまい、自分自身が見えなくなってしまう時がある。他人から見える自分を気にすることはあっても、最初にまず自分があるということを忘れてしまっていたりする。現実世界、それすなわち自分自身の心の世界だ。自分の心が投影された世界こそが現実世界だ。自分が変われば世界も変わる。私は思う。それならば、自分の信じたいことを信じていこうと。

これが俺のバレンタインデーの過ごし方だ。

バレンタインデー前日。今日は(今日も)彼女と一緒にいた。彼女は14日は仕事なので13日に一緒にバレンタインチョコを作ることになった。そう何を隠そう去年のバレンタインデーも彼女と弟と自分の三人で一緒にクッキーを作ったのだ。今年はアーモンドココアクッキーとトリュフとスコーンを作ってみようということになった。
 
今日(13日)は一番最初にクッキーを作っていた。弟は寝ていたので彼女と。二人で生地をこねこねしているとき、彼女に「電話かかってきてるよ」と言われ、あわてて自分のスマホをのぞいてみると母親からの着信だった。はいもしもしなんでしょうと出てみると「明日バレンタインだからチョコを渡そうと思って」とのことだった。母親は毎年私たち兄弟にチョコをくれる。電話がかかってくる前に自分は母親に「今日は彼女と一緒にチョコを作ってるよ!☆」とLINEでメッセージを送っていた。なので母親は電話越しに「本当は家にちょろっと寄ってチョコだけ置いていこうと思ったんだけど彼女と一緒で悪いから」と気を利かせてくださり、私に「最寄駅まできてくれないかなチョコ渡すだけだから」と言った。
 
先日のブログにも書いたが母親の誕生日が近いこともあり、次会うときはお酒を渡そうと思っていた。電話がかかってきたのが17時すぎで母親との待ち合わせが18時半だった。まだ時間はある。自分は内心バレンタインクッキー作りを中断して母親にプレゼントするためのお酒を買いに行きたいと思った。彼女にその旨を伝えようとする前に彼女の口から「お母さんのためにお酒でも買いにいきたいね」と提案があり、自分は「よっしゃ!」とすぐにヒゲを剃り始める。その時彼女が「お母さんにもクッキーを渡したいね」と言ってくれた。あとは生地を15分ほど焼くだけで完成だったので、クッキーをオーブンにいれ、その間に身支度をすませた。
 
自宅から徒歩15分ほどあるスーパーへやや急ぎ足で向かう中で自分はふと思った。彼女と母親を会わせたいなと。彼女と付き合って二年近く経つが、自分の母親と彼女を会わせたことは今まで一度もなかった。これはちょうどいい機会だろうと母親に連絡を入れ、彼女にも心の準備をしてもらった。
 
近所のスーパーで自分が目をつけていた焼酎を二本ほど買い(お酒を買うお金を与えてくれた坂爪さんに感謝や)、早足で駅前に向かった。待ち合わせ時刻ちょうどに改札前に着くとそこには母親の姿があった。思えば去年の11月から会っていなかった。さっそく母親と彼女が挨拶を交わす。自分と似て緊張しいな彼女は母親に会う前から結構緊張している様子だった。自分の母親に会うというのに自分まで少し緊張していたが実際に会ってみるといつもの調子で元気そうだった。母親に友達どころか恋人なんて一度も紹介したことがなかったので、母親の振る舞いがどうなるのか皆目見当もつかなかったが、拍子抜けするほどに普通の大人の対応だった。彼女に対して「まじめそうね」とか「やさしそうな子だね」とか「こんな息子で本当にいいんですか?」とか(おいっ! とツッコミをいれておいた)テンプレートな言葉もあり、礼儀正しい母親を前に自分は「自分の母親は普通だった」と胸のどこか奥のほうで安心した。今まで母親とは親と子というよりも友達という感覚で話していた。自分たち兄弟と話す以外での母親を見たことがなかったので、そこに自分の"母"としての振る舞いをする母親を見て、一般的な母としての母を初めて見た気がした。
 
母親はすぐに帰らなければいけなかったので10分ほどの会話をしたのちに別れた。彼女は緊張したせいか汗がたらたらだった模様。彼女はお母さんから私(みっつ)に対しての愛を感じたと言ってくれた。何気ない一日がどことなく特別な日になった気がした。帰宅後、弟も起きてきたので三人でお菓子作りの続きをした。彼女の職場の同僚の人たちにもバレンタインのお菓子をあげようと可愛い小袋にクッキーやトリュフをいれる作業もした。男の兄弟がバレンタインの日に自分たちで作ったお菓子をせっせとラッピングするという。一般的な男のバレンタインデーの過ごし方と比べると少し似つかわしくない一日となった。弟に言わせりゃ「俺たちに当たり前なんていらないよ」とのことだ。言葉はかっこいいが実際にはとても可愛げのあることをしていたように思う。
 
日にち的には明けて今日がバレンタインデーなんだけど、自分的にはもう今年のバレンタインデーは終わった感じだ。そういえば今日は嬉しいことがあった。自分のほしい物リストを見てくれた方(以前贈り物をしてくれた方)がウイスキーとコロナビールを「これはみっつさんにもらってもらおう!」と思ってくださったらしく、なんとバレンタインのチョコと合わせて自分のところに送ってくれるとのこと。もう素敵だとしか言いようがない。人とのつながりで思い煩ってしまうときもあるけれど、こうやって喜びをプレゼントしてくれる人の存在に励まされる。自分に「生きろ」と伝えてくれている気がする。ありがとうという言葉しか出てこない。もともと記念日はあまり得意なほうではなかったけれど、最近は本当に記念日が記念日になっていっている。ありがとうございます。今年のバレンタイン、ゴールできました。