みっつ通信

みっつ通信

三森正道という人間が好きなことを好きなように書いているブログ

常に今この瞬間にゴールしているという感覚を忘れずにいたい。

明後日の20日(日曜日)に70万時間テレビの企画で、山手線沿いを徒歩で一周するというイベントを立てました。いばや界隈の方たちからのお膳立てもあり、友達の中村さん(偽名)とのタッグもあり、無事イベント内容の文章を完成させることができました。
 
人生で初のFacecbookでのイベントページ作成だったので、投稿するときは結構ドキドキしましたが、やっちゃってみると案外平気な自分がいて、本番はまだこれからだというのに今は妙な達成感に包まれております。詳細は下記ページをご覧ください。
 
 
基本的に今回のイベントは「自分たちが楽しめればそれでよし!」と思っている節があります。「まずは自分を救え」ということで、自分たちが楽しそうにやっていれば(救われたようにやっていれば)、それを見てくれた方も結果として楽しんでくれるのかなあなんて思ったりしています。
 
山手線沿いを一緒に歩いてくれる仲間も募集しておりますので、気軽にご参加いただければなと思います。
 

 

真上にも書いたけど、「やっちゃってみる」と案外平気なのかなと思う。理由は「やっちゃってるから」で(かなり漠然としている)、「やっちゃう」ことは「やる」ことと違うんじゃないかなと思う。「やる」というのは自分の力のみでやるという無理してる感があるのに対して、「やっちゃう」というのは後押しや応援があるからやっちゃえるという感覚。

「やってる」んじゃなくて、「やっちゃってる」。

最近、人間から思考を取り除いたら何が残るだろうか、とかそんなことを考えていて、自分的には人間は思考するから人間でいられるんじゃないかと思った。考えることはイコール生きることだと思うし、自分が文章を書く理由があるとすれば、きっと、「考えることは楽しい」ということを伝えたいからに他ならないような気がする(断言できない)。
 
「それじゃ思考とは何か」ということも考えてみると、今のところの自分は思考とは言語なのかなと思っている。今の自分が思考できているのは日本語のおかげで、日本語がなければきっと考えることはできないんじゃないかなと思う。
 
日本語さまさまだと思う反面、日本語って人を責めやすい言語でもあるのかなとも思う。
 
例えば、「やる」と「やらない」は二項対立だなと思う。やるとやらないしかない世界では、「やる」と「やらない」しかない。分からないことだらけだけど、基本的に今の社会って(こんな言い方はしたくないけど)、「やってる奴が一番偉い」みたいな風潮があると思う。
 
そこで自分はどうなんだろうかと考えてみたら、「俺は常にやっちゃってきた」と思った。今回のイベントも「自分の力でやってる」というより、「やっちゃってる」と感じる。自分がこうしてみたいなと思うことを試しにでもやっちゃっえる環境にいることはすごくいいなと思う。
 
もっというと「思ってる」というよりは、「思っちゃってる」だし、「言ってる」というよりは「言っちゃってる」という感覚のほうが自分は大きい。だからって人のせいにするわけじゃない。
 
ただ、やるということが自分の力だけで出来ていると感じてしまうと、急に偉そうになるんじゃないかなと思った。「俺は俺の力でやってるんだからお前もやれて当たり前だよな」という感じ。
 
偉そうな人には偉い人はいないと思う。自分がやっていることが絶対的に正しいと思ってしまうと、自分のやっていることを他人にも強制するようになる。それが老害化じゃないかなと思う。
 
自分がブログを書き始めた理由も「ブログを書いたらいいよ」と勧めてくれた人のおかげだし、その時あの瞬間があってこそ今こうして文章が書けて自分が楽しいなと思えているわけだし。
 
やっちゃう環境や状況にあるかが全てな気がする。と、思えると気が楽になる。すべては流れているんだなと思える。
 
何事も「やってる」んじゃなくて、「やっちゃってる」んだと思う。
 
 
と、ここまで書いたところで「本当に言いたいことが言えたのか」とモヤモヤしてしまった。ので、弟に相談をしてみたところ、秀逸な答えが返ってきたので、全部書いておこうと思う。
 
みっつ「なんか今日書いたことだと〈やること〉を否定してしまっているような気がして。努力がないとか言いたいわけじゃないんだ」
 
弟「ふむ」
 
みっつ「自由意志がないとかそういう話をしたいんじゃないんだよなぁ。でも、〈やること〉が礼賛されすぎると無理をしてしまう人が増えてしまうんじゃないかと」
 
弟「やるということが全てになると、ゴールが先に置かれちゃうよね」
 
みっつ「!!!」
 
弟「目的を先に置いてしまうとそこに至るまでのプロセスがおろそかになってしまうというか」
 
みっつ「!!!」
 
弟「やることは大事。でも、ゴールが目的になってしまうと今が手段になってしまうから、結果に固執すると、今この瞬間は何なの?ということになるね」
 
みっつ「いまゴールしているという感覚が大事ですよね...!! ありがとうございます...!!」 
 
 
というわけで、この記事を投稿することもゴールですが、この記事を書いている今この瞬間もゴールしているという感覚は常に忘れずにいたいなと思いましたまる

こうあるべき、には、なめんなよ。

おいしいものを食べるとまずそうな顔をしてしまうみっつです。ここ数日は比較的涼しいですね。寝るのが楽です。最近はいろいろと考えることが多いのですが、その中でも特に大切にしたいと思ったことを今日はまとめたいと思います。

人を判断しない。

その人自身を見たいと思う。相手を男として見るのも女として見るのも完全に自由だけど、自分はまずは全ての人を純粋に人として見たいと思う。その人の周りに付いたゴミで人を判断したくない。肩書きやその人の状況は基本的にどうでもいい。その時々によって人は大きく変わると思う。具合が悪かったり。でも、その人自身を見ようとすることを怠らなければ、何も気にならなくなると思う。すべてを知れば、すべてを許せる。きっと、相手のすべてを知ることはできないけれど、相手を今よりも知ろうとすることはできる。

自分を出すとは、好き嫌いをはっきりと示すことである。

心の真ん中には孤独があると思う。自分一人で静かにしていると、自分の中の孤独に触れる。孤独に触れるということは、自分と向き合うということだと思う。自分と向き合い、自分を知るほどに生きづらくなる。何が好きで何が嫌いかすぐにわかってしまうようになるから。でも、それでも自分を出している限りは、どこかで喜びに出会える瞬間がある。自分を出すということは、きっと、好き嫌いをはっきりと示すということだと思う。軽蔑されたくないからと、中途半端な優しさを持ってひとと接するくらいなら、自分をさらけ出して呆れられたほうがずっといい。そのほうが嘘をつかなくてすむ。

自分を曲げないと付き合えない関係はいらない。

弟が言った。自分を曲げないと付き合えない関係はいらないと。超いいねと思った。ひとはきっと花みたいなもので、いつでもまっすぐ伸びることを望んでいる。でも、生きていると自分を曲げないとやっていけないときがある。仕方がないといってしまえば仕方がないけれど、それでも、自分を曲げずに生きようとする姿勢は心の奥にずっとあってもいいと思う。きっと、自分を生きるということは時にひとの言うことに耳を貸さないということだ。言うことを聞かない。そういう反抗期的な心は忘れないでいたいなと思う。

こうあるべき、には、なめんなよ。

一部の心ない人は、その人がどう生きているか、どんな実績を残しているかで人を判断する。自分のことは基本的に棚に上げ、他人にあーだこーだと言っている。そういう人に限って、自分の頭で考えた訳でもない他人からの受け売りの正義を振りかざす。「こうあるべきだ」と言う。が、私からしてみれば、どんなに「こうあるべき」と言われたところで、「そうはなれない」から「こうあってるんです」としか言いようがない。ひとつ言えるのは、あなたがいるから私がいて、私がいるからあなたもいるんですということくらいだ。「こうあるべき論」をふっかけられたときは、開口一番、「なめんなよ」のスタンスでいきたいと思っている。

アンチ的な心意気は常に忘れたくない。

完全に持論だけど、人の反対をいく限りは抜け出せない空間を、自分を生きる限りは抜け出せると思っている。抽象的になってしまうけど、人の反対をいくことは相手を基準に動いているのに対して、自分のままでいることは自分自身が基準になる。自分を生きることはそれだけで大きな価値だと思う。アンチ的に生きるということは、他人に抗うというよりは、自分のままでいようとすることだ。他人に無価値だと思われようと構わない、自分にとっては自分がいちばん価値がある。

流れを許すこと。

多分、今の時代は流れに乗ったほうがいい時代だと思う。流れに逆らうよりも、そのほうがずっと楽に生きられるような気がする。「それもだめ、あれもだめ」と言っている間に時代に取り残されるのがオチだと思う。何が正しいか間違っているかなんて本当は重要じゃない。全部そのままでいい。雑多は雑多のまま許す。自分が流れに乗ることを許せば、思いのほか楽しく生きられると思う。固執しない、執着しない、全部許す。自分はそういう価値観でいたほうが実際にずっと楽だ。

本音で話せる相手がいる。

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目が覚めた瞬間から思考が止まらない。多分、余計なことばかり考えている。
 
弟が朝シャンを終えて風呂場から出てきた音がする。逃すまい。私は起き上がり、布団もたたまずにトイレへ向かう。トイレへ向かう動線に洗面台があるので、鏡の前で髪を乾かしている弟に一言(異様なテンションで)「おはよう!!!」と言う。弟も半分苦笑いで「おはよう」と言ってくれる。そして私はトイレで用を足す。トイレから出る。弟は洗濯機を回している。私は歯を磨き、ささっとシャワーを浴びる。風呂場から出ると、弟は脱水の終わった洋服を洗濯機から取り出し、寝室へ移動した。私はささっと体を拭き、顔に化粧水をつける。それからおもむろに居間に置いてある扇風機の前に移動する。居間と寝室はドアを一枚隔てているだけなので、弟が寝室で洋服をハンガーにかけている姿は目の前に見える。私は寝室に入り、自分の布団を畳む。弟は洋服をハンガーに掛け終え、次は外に干してあった布団を取り込み始めた。
 
弟が取り込んだ布団をコロコロでコロコロしている。私は自分の布団を畳み終えた。私は居間にある扇風機の前にまた戻る。弟はコロコロを終えた布団を畳み始めている。私は様子をうかがう。弟が布団を畳み終え、寝室にもう一台ある扇風機の前に座って一瞬涼み始めた。今しかない。そう思った私は弟に話しかける。
 
「今日も暑いですな!!」
 
弟も「うむ」といった感じで頷く。私は続けざまに「最近、いろいろと考え事ばっかりしちゃってる」と言う。弟は私の顔を見る。私は頭で考えながら話すというよりは思考をまったく使わずにただなんとなく話したいことを垂れ流し始める。

無理に話さない。

「やっぱり人ってトークイベントみたいなものに出るとなんというか心境の変化が起こるよね。俺もこの間菊名の家でトークイベントしたって言ったじゃん?あれからちょっといろいろと考え始めてる気がする。この前さ、すごいいい文章見つけたんだよね。ディベートって知ってる?弁論大会とかあるじゃん。ああいうのは自分の意見を曲げないことが重要(目的)なんだってね。自分の主張を押し通したら勝ちみたいな。でさ、対談ってあるじゃん。対談はさ、参加者の考え方が変わったら良い対談なんだって。で、この前俺が参加したトークイベントはさ、一応自分は話す側でのゲストって感じでの参加だったんだけど、どちらかというと参加者と登壇者が各々話したいことを話しましょうという対等な立場でお話をするっていう言ってみればお話会みたいなものだったのよね」
 
「ほほー」
 
「で、休憩時間を省くと1時間半ぐらい話す時間があったんだけど、その間俺は一言ぐらいしか喋らなかったんだよね。主に坂爪さんとまゆさんが話してたんだけど。でもさ、俺とくに話したいことがなくてさ。寝不足も影響してたかもしれない。たださ、俺が話してなくても、なんというか沈黙?みたいな誰も話さない状態みたいな時間はほぼゼロだったんだよね。つまり俺がさ、そこでたいして話すこともないのに話さなくちゃ!と思って話してたら、参加者の人の話を遮っていた可能性もあって。だから、結果的にだけど、無理に話さなくてよかったなって思えてるんだ」
 
「成功させなきゃって思って話すのは嫌だよね」
 
「そうそう。話さなきゃ、じゃなくて、勝手に口から言葉が出てきちゃうのが理想だと思うんだ。今みたいにね(笑)。多分、俺もあそこで無理をして何か話してたら中途半端に満足してしまって何も顧みなかったと思う。けど、あの時無理をしなかったから、今こうして少し考え方に変化が起きてるんだよね。結果として自分にとっては良かったと思う」

話すは離す。

「それでさ、最近は自分は変化を望んでいるようで。こういつもと違ったことをしていきたいと思ってるぽいんだ。だから、昨日もちょっとブログいじってさ。鉄砲玉のメンバーのリンクをまとめてみた。で、まとめてみるとさ、みんなが書いてる文章をつぶさに読むことになるじゃん。そうするとさ、みんなもれなく人柄がいいのよね。いい意味でまともでさ。みんないろいろやってるの。ってなってくると俺って大丈夫なんかな?て思えてくるよね。ろくにうまく人とコミュニケーションはとれないし、心の中ではそれなりに悪態もついてるから、自分の心がどろどろみたいだなって」
 
「ひとと比べちゃだめでしょ」
 
「そうだよね!俺は俺だ!だよね!いやあ、やっぱりなんだかんだいっても話すは離すですよね。良ちゃん(弟の名前)に話すと、なんか自分の中心に戻るっていうのかな。やっぱり誰でもいいわけじゃない。こう話をしている時にがんがんアドバイスされたら、ああそうですか、ってなっちゃうし、こうじっくり話を聞いてくれる人の存在が必要ですよね。居場所は場所ではなく人間だなと改めて思う」

惰性の反対は変化。

「......ほんとさ、やりたいことってやりたいうちにやりたいよね。やりたいって思ってることって放置しておくとそのうちどうでもよくなっちゃう。で、やりたいを放置し続けると、どこかのタイミングでダラっとくる。多分、やりたいことができてないからかなと思う。だから、やりたいが頭に浮かんだ瞬間にキャッチしていくというのかな。そうすると行動に移しやすい。例えばさ、本当はゲームやりたいのに人付き合いがあるからって人付き合いを重視してると、せっかく人と会ってるのに集中できない。逆もそう。人と会いたいのに傷つくのが怖いからとゲームに走ったら惰性が溢れる。惰性の反対は変化だよね。やりたくないことを無理にやると惰性にはまるし集中力がなくなるけど、その瞬間にやりたいと思ったことをやっている限りは常に変化してるし集中力も持続する」
 
「うむ」
 
「でも、ダラダラするってなんだろう?俺らってニートだけど、ダラダラはしていないよね。毎日何かしらやりたいことというか、やるしかないことがいっぱいあって。いつも何かに集中してる」
 
「ダラダラはしていないね」
 
「ここ2~3年はいつも何かしている。5年ぐらい前はもっとダラダラして時間を無駄にしていたような気がする。ダラダラしてるときって本当は何かを望んでいるときなのかもしれないね。したいことがあるけどできないときとか。何かに反発している状態というか」
 
「ほう」
 
「それにしても良ちゃんとか自分の身近にいる人たちは俺から見ると精神が超安定しているように見える。実は超悩んでたりするかもしれないけど。俺なんて一時間ごとにこう波が(身振り手振りで表現する)ぐわんぐわんとあるぜ」

本音で話せる相手がいる。

「なんか今話してることブログに書ける気がしてきたよ。今こうやって話してることをそのまま書けばいいんだよね。本音だから。本音を書くからすっきりするんだよね。俺いつもブログだと変にかっこつけちゃうからだめなんだ。思い立ったが吉日ならぬ思い立ったが吉時」
 
「うんうん」
 
 
そして、自分は満足気にPCの前に座った。が、うまく書き出せない。
 
立ち上がり言う。
 
「さて、何事もまずコーヒーを飲んでからですよね!!」
 
「あれ何事もまず食べてからじゃなかったっけ」
 

 

私はコーヒーをいれ、パソコンの前に座り直し、今ここまで文章を書き切った。
 
本音って誰にでも話せるものではない。だからこそ、何を言っても受け入れてくれる相手がいることは凄く幸福なことなのではないかと思う。良ちゃん、今日も話を聞いてくれてありがとう。心を込めて。

SCRAMBLE HOUSE TOKYO 8/3 DON'T TRY

昨日は菊名にあるSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に遊びに行ってきた。
 
私の友達の中村さんが最近、ルノー【自動車ブランドで有名】の5万円もする折りたたみ自転車を買ったとのことで、「一緒に横浜を自転車で走りましょう」と誘ってくれたのだ。
 
私は自分用の自転車を持っていないので、菊名にある坂爪さんが乗っている自転車を借りさせていただくことにした。
 
13時ごろに待ち合わせをしようということになり、私は昨日は少し寝不足になりながらも(寝不足は大敵!)、常磐線ー千代田線―東急東横線を乗り継ぎ、無事に菊名のSCRAMBLE HOUSE TOKYOの玄関の前に辿り着いた。
 
各駅と急行を乗り間違え、結果的に20分ほど遅刻をしてしまった。家の玄関の前には、これ見よがしに中村さんの自転車が行く手を阻むようにドドーンと置かれていた。

スクリーン

自転車を横切り、扉を開けると、目の前に体育座りをした中村さんがいた。さっそくキャラが立っている。中村さんを横切り、玄関から入って右手の部屋を覗くと坂爪さんがプロジェクター用のスクリーンを壁に取り付ける作業をしていた。
 
私と中村さんも坂爪さんの作業を手伝う。窓の前にスクリーンを取り付けることにより、カーテン代わりにも使える。「なるほど!」と思った。これでプロジェクターを買えば、一気に映画館のようになる(かも)。
 
私たちはあまり大工仕事は得意ではないので、少し取り付け作業に時間を要したが、なんとか完成。が、スクリーンを下まで下げると、上に自動で巻き戻らないので、自分たちの手でくるくると回すことでしか戻せない状態になった。多分、製品の問題だろうということにし、作業を終える。

断捨離

菊名の家には先月末に行ったばかりだったけれど、家の中の空間の印象はかなり違った。物がなくなり、だいぶスッキリしていた。坂爪さんは断捨離の達人(?)である。ごちゃまぜの家という名の通り、出入りする人が多いこの家は必然的に物が多くなる。時間が経つにつれ、雑多になりやすい。先日のいばや通信を読んでみると、鉄砲玉の私物が多くなってきたとのことで、「明日までに荷物を取りにこない人の私物は処分します」と書かれていた。そのおかげもあってか、見違えると言っていいくらい、家の中は整理整頓され、居心地の良さがグンと上がっていた。家の掃除をすれば、9割の問題は解決する(ような気がした)。

私はザワッた。

家に着いて、30分ぐらい経過した頃だろうか。家のチャイムが鳴る。坂爪さんが扉を開けると、どうやら近隣に住んでいる方らしく、要件はというとまずは「お宅の車の止め方に問題がある」とのことだった。車道にはみ出していて危ないのでもう少し詰めろとのこと。それから「うちの家の前にゴミ袋が置いてあって、お宅じゃないと思うんですけど、風も吹いていないのに、ゴミ袋が置いてあって。ゴミも少し散らばっていたので、お宅じゃないと思うんですけど、私が全部片付けたんです。だから、ね、お宅じゃないと思うんですけど。風も吹いていないのにね。ね、それじゃ、お願いします。」と私が要約するとこんな感じだった。
 
坂爪さんは礼儀正しく、しっかりと相手の言葉に耳を傾け、話を聞いていた。私はというと「遠回しな物言いを繰り返していると、本人でさえ何が言いたいのかわからなくなるのではないか」と心の中で悪態をつきながら、まぁ、仕方ないことだ、と気持ちを切り替えることにした。

中村、しごかれる。

それから間もなくして、えりか姫とえりか姫のお母さんであるNさんが登場した。Nさんは用事があるようで、すぐにいなくなってしまったが、スイカと桃を届けてくれた。感謝である。
 
ほどなくして、また家のチャイムが鳴った。内心、「また何か言われるのかも?」と思った。坂爪さんが扉を開けると、私たちの目の前に元気な子供たちが現れた。9歳の女の子と、多分、4~5歳の男の子。お母さんに聞くと、岩手県から来られたとのことで、そのフットワークの軽さにビビる。坂爪さんの求心力(?)もすごいなと思った。
 
それから2~3時間、子供たちとはしゃぎ回って遊んだ。主に、中村さんが引っ張りだこで、子供たちに超絶懐かれていた。お母さんによると、子供たちも人を選ぶようで、行く人には行くけれど、行かない人には行かないとのこと。私にはほとんど来なかった。自分の心の開き具合に問題でもあるのだろうかと思いながら、中村さんが子供たちにいじられている姿を楽しんだ。男の子のほうは若い女の人が大好きらしく、えりか姫の脚にずっと掴まっていた。いい仕事をしましたね、お二人とも!
 

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自転車。

夕方の5時を過ぎたころ、お母さんと子供たちはお帰りになられ、中村さんは駅まで送りに行った。
 
静けさが、家の中を包み込む。夏になると聞こえてくる、あんなにうるさいセミの鳴き声も、静かな空間にいないと聞こえないようだ。
 
坂爪さんはゆっくりと小屋の作り方に関する本を読んでいて、えりか姫もスマートフォンを触っている。8月にしては過ごしやすい気候で良かった。私も新しく買ったスマートフォンを触る。
 
15分くらいして、中村さんが帰ってきた。菊名駅のそばに踏切がある。そこまで送って、ダッシュで逃げてきたとのこと。私は(そこまで行ったなら駅まで行けよ!)と内心ツッコミをいれていた。
 
時刻は18時。自転車に乗りにきたはずだった。もう暗くなってしまうので、中村さんと私は「少し走ろうか」と表に出ることにした。同時に、えりか姫も鉄砲玉の依頼で三軒茶屋に用事があるとのことで、三人で駅まで行くことに。今度はみんなで卓球をしようということになった。
 
駅までえりか姫を見送った後、私と中村さんはみなとみらいに向けて走り出す。が、ある程度走ったところで現時点が日吉であることに気付く。どうやら真逆の方向に走っていたようだった。小雨も降り出し、お互い朝食以降何も食べていなかったということもあり、みなとみらいへは向かわず(いつでも走れるからね!)、菊名の家に戻ることにした。

ロウソクの火に灯されて。

帰宅後、二人で豆乳をがぶ飲みする。坂爪さんは断捨離を敢行していた。「みっつ、これ持っていく?」と私にいろいろと与えてくれた。
 

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(テントをもらった......!!)
 
坂爪さんが部屋でロウソクを灯す。電気を消し、ロウソクだけが灯された部屋にいるだけで心が落ち着いてくる。坂爪さん曰く、寝る前にロウソクの火を見ると眠りが深くなるらしい。三人でロウソクだけが灯された部屋で寝転がっていたら、私はいつの間にかに30分ほど寝てしまった。
 
目が覚めると、坂爪さんも寝ていた。中村さんは起きており、「二人が寝ちゃって寂しかったよ」とかわいいことを言っていた。
 
「それでは、そろそろ帰ろうか」と、中村さんと私はお暇することに。坂爪さんは遊び疲れた子供のように寝ていた。起こさずにロウソクの火だけ消して、家から出た。上の写真の通り、なかなかに荷物は重かった。が、私はその荷物の重さは喜びの重さだと思うことにした。家に帰れば、弟がいる。これを持って帰ったら、二人でサンタクロースが届けてくれたプレゼントを開けるときのようなワクワクを抱えながら、一つずつ検品することができる。
 
中村さんとは菊名駅で別れ、私は帰路についた。

DON'T TRY

えりか姫(鉄砲玉のみんな)を見ていると、「やってるなあ」と思う。私がこの前面白いなと思った作家の一人にチャールズ・ブコウスキーという酔いどれおじさんがいる。そのおじさんの墓石には「DON'T TRY(頑張るな)」と刻まれている。
 
調べてみると、「トライしている間は本当にはやっていない。四の五の言ってないでやれ!」というような意味らしい。生きるとは、行動することなのかもしれない。
 
行動とは何か。それは、「勇気を出すこと」ではないかなと思った。
 
やるか、やらないかで選択を迫られたとき、自分はより「勇気がいるほうを選択したい」と思った。
 
勇気を出したとき、結果はどうあれ、自分は「やった!俺はやったぞ!」と後から思うことができる。
 
死ぬまで自分の運命に楯を突き、勇気を出すことを忘れずに生きていきたいなと思う。

俺がやらなければ誰もやらない。

ある時から、「俺がやらなければ誰もやらない」という強迫観念を持つようになった。多分、父親の元を抜け出すために警察に連絡をしたあの時がきっかけだ。
 
「俺がここで電話をしないときっと誰も警察に電話をしない」。
 
この感覚が今でもずっと残っている。俺がやらなければ誰もやらない。
 
俺がここで何かを変えなければ、何も変わらない。もしかしたら人生全般について言える真理なのかもしれない。自分の人生の主人公は自分だ。だから、周りが振り回してくれるのを待つのではなく、どこかで自分が一手を打たなければならない。
 
今のままじゃ嫌だから、自分が変化にならないと。そういう強迫観念がある。
 
他人の変化を望むとき、それは、強く自分の変化を望んでいるときだ。他人に変化を望むとき、自分自身が変化にならなければと思う。
 
自分と闘っているのだろうか?
 
たまには自分と闘うことも必要だろう。
 
傍から見れば、自分で自分を殴るなんて甚だ滑稽かもしれない。
 
ただ、きれいにまとまりたくないと思うのだ。
 
ある一定のルートの上を歩くのは安心感がある。ただ、ずっと同じような道を歩いていると、ふとした瞬間に退屈が襲ってくるのだ。
 
このままでいいのか、俺は?と。
 
その疑問に打ち克つためには、どこかの拍子で暴れなければいけないのだ。
 
自分を崖の下に落とす。
 
死ぬかもしれない。
 
が、退屈であるとき、死ぬような感覚を欲しているのだ。
 
だから、たまには自分に対して許そう。
 
暴れることを。